停滞
私は夫の首に腕を回し、体重を預けました。夫は何も言わず、じっと布団の上に座っていました。
どれくらいの時間、そうしていたでしょうか。
「ちょっと出てくる」
突然、夫が立ち上がりました。
「こんな時間にですか?」
夫は驚く私の目をまっすぐに見て言いました。
「明日、話す。約束だ」
夫は私の知る限り、約束を違えたことはありません。私は夫を信用しています。けれど結局、夫は朝まで帰って来ませんでした。
***
夫が帰宅した時には、もう既にお天道様は高く上がりきっていました。
「南天のところに行ってきた」
夫は何かが吹っ切れたような、さばさばした表情を浮かべていました。
「これで俺は、やっとお前に許しを乞える」
そう言って夫は語り始めたのでした。
***
なあ知っているか? 俺は、人を殺したんだ。
戦争なんだから当然だって?
そうかもしれない。結果としては同じなのかもしれない。
だがやっぱり違うんだ。他のやつらは俺が銃を撃った結果、運悪く死んだ。
でもあの子は、死ぬとわかっていて俺が殺した。
戦争中、俺はN島に行っていた。南の海に浮かぶ小さな島だ。南天は俺とは違う部隊に所属していた。まだ右手があった頃の話だ。
戦闘の最中、俺は弾を身体のあちこちに受けて怪我をした。それで、一軒の小屋に逃げ込んだんだ。そこは、現地民の住む村のすぐ近くだった。その小屋にいた先客が、南天だったんだ。
あろうことか、あいつは俺に銃を向けてきた。ついに敵味方の区別もつかなくなったのかと思って声を掛けたら、そうじゃなかった。
その家の中には、保存が利く食料がたくさんあったんだが、あいつは俺がそれを奪いに来たと勘違いしたらしい。食料を独り占めしようと必死な様子だった。あの時のあいつの目は忘れられない。まるで飢えた獣みたいだった。
俺は必死に南天を説得した。あいつはようやく理解してくれたようだった。あいつはこちらに背を向けないようにしながら、小屋を出て行った。俺は、なんとはなしにあいつの後ろ姿を見送っていたんだ。
その時、なんだか嫌な感じがして回りを見ると、敵兵が手榴弾を持っているのが見えた。危ない! と考えるより先に叫んでいた。南天は、辛うじて直撃は免れた。だが、お前も見たとおり、左腕を犠牲にした。
敵兵がいなくなったのを確認してから、俺はあいつを自分のいる小屋にどうにか運び込んだ。俺の腕俺の腕俺の腕、とあいつが呪文のように呟いていたのをはっきりと覚えている……。
ああ、南天の話なんかどうでもいい。問題は、俺のことだ。
俺と南天は、怪我が良くなるまで、その小屋に留まることにした。
え? どうして隊に戻らなかったのかって?
……戻りたくなかった。あんなところに戻るくらいなら、死んだ方がいいと思った。あの時はもう、いつ死んでもおかしくないと諦めていたから、せめて死に場所くらいは自分で決めたかった。
とにかく、俺たちは小屋の中で傷の治療のためにできるだけのことはした。日にちの感覚は既になくなっていたから、何日ぐらいそうしていたのかはわからない。ほんの一日二日だったかもしれないし、ひょっとすると一週間くらい経っていたかもしれない。まさか、人がやってくるとは思いもしなかった。
その小屋を突然訪れてきたのは、十五くらいの、明らかに現地民の娘だった。俺たちは驚いて、お互いにしばらく何も言えなかった。
当然のように、その娘は俺たちを見て一目散に逃げ出そうとした。まずい、他の現地民に知らされたら俺たちの命はない。そう考えて、どうにか娘を引き留めようとした。
俺が何と声を掛けたものか迷っていると、南天が何か言った。あいつは現地の言葉を少し習い覚えていたんだ。
明らかに異国から来た男が、自分たちの言葉を話すのを聞いて驚いたのだろう。その娘は振り向いて、恐怖と好奇心がない交ぜになったような表情を浮かべていた。南天はその娘に一方的に話しかけていたが、やがて娘は一つ大きく頷くと、もと来た方向に走って行った。
南天は、自分たちが怪我をしており無害であるということと、自分たちのことは他の人には知らせないでほしい、ということを伝えたらしかった。
大丈夫なのか? と俺が問うと南天は、大丈夫じゃなかったらそれまでのことさ、と真顔で答えた。俺は、その答えに変に納得したのをよく覚えている。
それから数日は、何事もなく過ぎた。
あの娘が再び俺たちのいる小屋を訪ねてきたのは、ようやく俺の肩の傷の痛みが引いた頃だった。俺は暇つぶしにと、南天から現地の言葉を少し教わっていたので、少し会話をしてみたくなって、「どうしてここに来た?」と尋ねた。
「心配だったから」、と娘は答えた。「何が心配だって?」俺が聞き返すと、「あなたたち、怪我してるから」と娘はまた答えた。そして、家から薬やら何やら持ってきたの、と荷物を広げ始めたのを見て、俺と南天は慌てて、自分でできるから構わなくていい、と口々に言った。しかし、「いいの。それに手当てはちゃんとしないとだめ」と、何を言っても聞かない。
結局俺たちは根負けして、おとなしく手当てされることにした。
「俺たちが怖くないのか?」
南天が聞くと、
「いいえ、全く」
と、平然とした答えが返ってきた。
「なぜ俺たちを助ける?」
「私だって進んで助けたいわけじゃないけど、もし死なれたら見殺しにしたみたいで嫌だもの」
慣れた手つきで俺の肩口に湿布を貼りながら、娘はにべもなく言った。
「悪いな」
「いいえ、たいしたことじゃないわ」
それから毎日、娘は俺たちのところを訪れるようになった。
包帯を巻き直したり、簡単な会話をしたりするだけで、長い時間居るわけではなかったが、俺たちにとっては十分ありがたかった。
娘が俺たちのところに来るようになってから四日目、南天が消えた。
『俺はそろそろ部隊に戻る。お前のことは誰にも言わないから安心しろ』と、ただそれだけの書置きを残して、居なくなった。
悲しくも寂しくもなかった。前々から、そういった狡猾さのあるやつだろうとは薄々勘付いていたんだ。お前もそう思っただろう? それ以来、この間あいつがうちに来るまで一度も会っていなかった。生きていることすら知らなかったさ。
娘は、一人で小屋に取り残された俺を見て笑った。
「あなたも一人になったのね」
「お前も一人なのか?」
「そうよ。お父さんもお母さんも兵隊に殺されたわ」
どちらの国の兵隊か、俺は聞けなかった。娘も言わなかった。
「あなたの右手、綺麗ね」
包帯を取り換えている時に突然言われて、俺は驚いた。いつだったか、お前が言ってくれたことと同じだったから。
なんでこんなことを話すのかって?
……これが俺のせめてもの罪滅ぼしになるかもしれないからだ。所詮ただの自己満足だがな。
結局俺は、あの娘の名前も知らない。
名前を聞く前に死んでしまった。
ああ、お前を人殺しの妻にしてしまったことを許してほしい。いや、許してくれなくてもいい。俺の罪は法廷では裁かれない。だからお前が裁いてくれ。
いいか、よく聞いてくれ。
N島に毒ガスを撒いたのは俺だ。
俺がN島の住民を全員殺したんだ。