停滞
南天さんは慇懃とも思えるほど何度も、私と夫に頭を下げました。
「ふん、何をいまさら、取って付けたように」
夫は鼻で笑っています。
「いやいやとんでもない。もしあの時お前がいなかったら、このくらいの犠牲じゃ済まなかった」
南天さんはそう言って、私に自分の左腕を示しました。確かに、さっき漏れ聞いた会話の通り、その袖には中身がありません。肩から先がすっぱりと失われてしまっているのです。
「私は左利きなもんで、なかなか厳しいですねえ。幸い、いい義手を作ってもらえることになったんでほっとしてるところですよ。今日は、旦那さんにその義手職人を紹介しようと思って参ったわけです」
南天さんがそこまで一気に喋ったところで、夫が私の名前を呼びました。私が、はい、と返事をしてそちらを向くと、夫は妙に真剣な表情をして言うのです。
「茶を頼む」
その言葉にはよくわからない迫力があって、私は刹那、何も言うことができませんでした。
「……え? ああはいはい。これは気が回りませんで失礼致しました……」
「どうぞお構いなく」
台所に向かう私に向かって投げかけられた南天さんの声に少し硬さがあるように思えたのは、私の気のせいでしょうか。二人は私を居間から遠ざけようとしていたに違いありません。きっと、あの義手云々という話は嘘なのです。だって、最初に南天さんが言っていたではありませんか。「お前もやられたのか?」と。あれは、夫が右腕を失ったことを初めて知ったような口ぶりでした。
そう思うとどうしても聞きたくなるのが人の性というものです。私は台所までなるべく急ぎ足で行き、それから再び足音を殺して廊下を逆戻りし、居間と廊下を区切る障子にぴったり耳を付けました。向こう側から私の姿が見える心配はありません。盗み聞きという行為が、うしろめたさと共に体の奥底からの興奮を掻き立てるものだとは、今まで全く知りませんでした。
「……結局、あの子はどうなったんだ?」
南天さんの声です。
「死んだよ」
夫の声が、短く答えました。
「そうか。死んだか」
南天さんが低く呟きました。
「俺も死体を確認したわけじゃない。だがあの後、島一帯を殲滅したんだ。生き延びたなんてことはまずありえない」
「ああ、あの毒ガスかい」
「知っているのか」
夫は少し意外そうに言いました。
「そっち方面にはちょっとしたコネがあってな。だが安心していいんだぜ。お前のことをばらしたりはしねえよ。……ところで、あの後いったい何があったってんだ? 俺は具体的なことは何も知らねえんだが」
南天さんの声は、好奇心を隠そうともしていません。私にはそれがなんだか下品に思えました。……いえ、今の私は人のことを言える立場ではないのでした。
「ああ、知らない方がいい」
夫は淡々と受け流します。
「ちぇっ、ケチくせえなあ。ちょっとくらい教えてくれたっていいじゃねえか」
「……今、ここでは話したくない。また今度だ」
そうかよ、と南天さんがいかにも残念そうに言いました。
「……茶、遅いな。ちょっと見てくる」
夫が立ち上がる気配がして、私は慌てて台所へと退散したのでした。
昼間のことで、はっきりとわかりました。夫は私に隠し事をしています。戦争中に南の島で何かがあったのです。そしてそれは、私には聞かせたくないことなのでしょう。
私はなぜこんなにも夫の秘密に執着しているのでしょうか。戦争中のことです。苦しいことも、恐ろしいことも、おぞましいことも、話したくないこともたくさんあったでしょう。それら全てを知りたいとは思いません。ただ私は、夫の心が離れていってしまうことが怖いのです。ほんの少しでも多く、夫のことを知っておきたいのです。
***
幻肢痛は時々、眠っている時にも襲ってくるらしく、私はしばしば夫のうなされる声に起こされました。夢うつつで何か言っているのはわかるのですが、それがどこか異国の言葉のようなのです。おそらく、戦地で覚えたのでしょう。無論、意味は全くわかりません。しかし時折、誰かに呼び掛けているような調子が感じられます。
とても、苦しそうです。苦しみながら、誰かを呼んでいるようなのです。
「許してくれ……。悪かった。俺が悪かった……」
不意にそんな言葉が夫の口からこぼれ出してきたので、私は驚きました。いったい、何の夢を見ているのでしょう。それは、右手を失ったことと何か関係があるのでしょうか。
許してくれ、許してくれ、と夫は繰り返しています。
その様子を見るに堪えなくなって、私は夫を揺り起こしました。目を開けた夫は、私の顔を見ると一瞬、ほんの一瞬だけ怯えたような表情を浮かべました。
「大丈夫ですか? 随分ひどくうなされていましたけど……」
夫は息を弾ませていました。
「……ああ、大丈夫、だ」
途切れ途切れにやっとの思いでそう言うと、夫は私に水を求めました。言われたとおりに、コップに水を汲んで持ってくると、夫は一息にそれを飲み干してしまいました。その姿はまるで、何か口の中にこびりついた不味いものを、一気に飲み込んでしまおうとしているかのようでした。
「どんな夢を、見ていたのですか?」
私が問うと夫は、
「……何でもない」
と、首を振って答えました。
「あの、」
私はさらに問いを重ねます。
「何を隠しているんですか?」
「何も隠してなんかいない」
夫は平坦にそう言いました。
「嘘ですね」
「嘘じゃない」
「いいえ、嘘です」
「いいや、嘘じゃない」
「嘘、嘘」
「嘘じゃない、嘘じゃない」
子どもの喧嘩のような掛け合いの後、短い沈黙がありました。
「この嘘つき!」
気づけば私は、夫の頬を音高く打っていました。それだけに留まらず、言葉が勝手に私の口から溢れ出てくるのでした。
「私にはわかるの。あなたは嘘をつく時に人の目を見ないから。ねえ、頼むから私に隠し事をしないで! 嘘をつかないで! お願いだから、全部話して!」
夫の右腕を取ろうとして、私は、その部分が存在しないことに気がつきました。どういうわけか目から涙が流れ出てきます。私は夫の肩に縋って少しだけ泣きました。夫はその間中、ずっと無言でした。
さっきよりずっと長い沈黙が、私たちの間に舞い降りました。
着物越しに伝わってくる夫の体温は、私に言い様もない安心感を与えてくれます。夫の肩に顔を埋めて、私の大好きな匂いを胸一杯に吸い込みました。
「なあ」
不意に夫が口を開きました。
「はい?」
返事をすると、今度は夫が私に問うのです。
「お前は、俺が戦争から帰って来て嬉しいか?」
夫の表情は窺い知ることはできません。けれども、その口調から夫が至極真面目に言っていることがわかりました。
「ええ、もちろんですとも」
私が答えると、夫はそうか、と短く言ってさらに続けました。
「こんな体になってもか?」
「ええ、ええ」
夫はまた、そうか、と言いました。そして、それから何呼吸か間があった後、夫は絞り出すような声で三度目の問いを発したのです。
「お前は、俺のことをずっと好きでいてくれたのか?」
「ええ。ずっとずっと、好きでした。今も好きですよ」