停滞
戦争から帰ってきた時、夫は五体満足ではありませんでした。右手首から先を何処かに置いてきてしまっていたのです。驚いて言葉も出ない私に、夫は笑って言いました。
「ちょっとした爆発に巻き込まれてな。持って行かれちまったよ。利き腕だし、お前にはこれから色々と不便をかけることになると思うが、よろしく頼む」
軍服の右の袖口が、頼りなさげに風に揺られているのを見て、内心の不安が顔に出てしまっていたのでしょう。夫は私を抱き寄せました。懐かしくて、温かい吐息が私の耳朶にかかります。
「大丈夫。何も心配することはないさ。俺とお前ならきっとうまくやっていける」
私は夫に顔を見せないようにしながら、大きく一つ頷きました。その時の私には、そうすることしかできなかったのです。
こうして私たちは再び、二人で暮らし始めました。
けれど、すぐに平和な日常が戻ってくるというわけにはいかなかったのでした。
「う、ううううう、痛ぇ、痛ぇよ……!」
夫が帰ってきた日の夜中、私は隣で寝ている夫の呻き声で目が覚めました。どうしたのかと問うと、失くしたはずの右手が痛むと言うのです。
「痛ぇんだよ、なんとかしてくれよ……」
なんとかしてくれと言われても、失くした部分が痛むというのですから、どうすることもできません。私は途方に暮れてしまいました。せめて、何もしないよりはましかと思い、腕の先端を氷で冷やしてみたり、右腕全体をさすってみたりしましたが、一向に効果は上がりません。万策尽きたかと思われた頃、ようやく夫は痛みを訴えるのをやめました。そして、そのまま寝入ってしまいました。
翌朝、夫は何事もなかったような顔をして起きてきて、朝ご飯を食べ始めたので、私は昨夜のことを話しても良いものかどうか悩みました。が、ここで聞いておかないことには後になってから後悔する羽目になるように思えたので、思い切って口火を切りました。
「まだ……、右手は痛みますか?」
夫はやり辛そうにしながら左手で箸を口に運んでいましたが、その手を止めて私をじっと見ました。
「……ああ。夕べは驚かせて悪かった。……時々、痛むんだ。無いはずの右腕が。焼けるように痛むんだ。変な話だろう? だがな、俺と同じ部隊にいた者で左脚を失くした奴がいるんだが、そいつも同じことを言っていた。……足の指が痛むんだと。脚の付け根からすっぱり持ってかれたってのに、足の指がびりびり痛むんだと」
幻肢痛って言うらしいんだがな、と夫は付け加えました。
「それは……、自然と治るものなんですか?」
私が問うと、夫は少し首を傾げて半ば諦めたような表情で、さあな、と言いました。
「医者にも診てもらったが、今のところこれといった治療法もないらしい。辛抱強く付き合っていくしかなさそうだ」
夫はふっと笑うと、食事を再開しました。
夫が右手を失くしたこと、それがいったい何だというのでしょう? 命があっただけ幸運だと思わなくてはなりません。私の友達にはご主人が戦死された方も多くいるのですから。それでも私は不満なのです。夫のあの右手が失われてしまったことが我慢ならないのです。私はあの手の美しさに惹かれて夫と一緒になったというのに! 勿論、夫の左手も美しいのです。けれどそれは、常に右手と対になっていなければならないのです。ああ、それにしてもなぜ、どうしてよりによって右手なのでしょう! 夫の最も美しい一部分を奪っていくなんて! 夫の右手を奪った爆発を引き起こしたのは一体誰なのでしょう。私は顔も名前も知らないその人を絶対に許しません。例えそれが敵国の兵士ではなく、味方だったとしても、絶対に許しません。私は怒っています。何に対して? 夫を戦場に連れ出した国に対してでしょうか? いいえ、もっと漠然とした運命だとか、そういった目に見えないものに対して怒っているのかもしれません。とにかく、夫は右手を失くして、私にとって不完全になってしまったのです。
あの美しい右手が私の頬を撫でることはもうないのです。あの美しい右手が私の頭を抱き寄せることはもうないのです。嗚呼、私はどれだけあの右手に救われてきたことか! 頬を濡らす涙を拭ってくれ、温かい胸に抱き込んでくれたあの右手に!
私は身勝手な女です。わかっているのです。腕を失って一番辛い思いをしたのは夫だということは。私が嘆くまでもないということは、重々承知しているのです。けれどそれでも! 私は惜しまずにはいられないのです。
「なあ、悪いんだが」
夫に呼び掛けられて、私は意識が引き戻されたのを感じました。
「やっぱり箸だとどうにも食べにくい。匙を持って来てくれないか」
***
男の人たちが復員して来て、街は傷痍軍人で溢れかえるようになりました。片腕がない人、片足がない人はもちろん、両腕、両足のない人も沢山見られます。
その人たちは、同情を誘うように義手や義足を見せつけてくるのです。同情するなら金をくれ、ということでしょうか。足下には小銭の入った空き缶まで置いてあります。私は、その空き缶を見る度に、なんだか悲しいような、その半面少しだけ嬉しいような変な気持ちがするのです。
幸いにも、私たちの家は戦争の被害を免れました。生活は決して楽ではありませんが、物乞いのような真似をしなくてもなんとか二人食べていくことはできます。そのことが、私に奇妙な優越感を与えているのでした。夫がどう思っているのかはわかりませんが、あえて聞こうという勇気も私にはありません。口に出すのが何だか恐ろしいのです。触れてはいけないように思うのです。
ああ、買い物のために外を歩いているだけで気が滅入ります。こんな時代はいつになったら終わるのでしょうか。……いえ、止しましょう。私たちの戦後はまだ始まったばかりなのです。
「ただいま帰りました」
やっとのことで家に帰りつくと、見たことのない男物の靴が目に留まりました。
「お前もやられたのか?」
中から、耳に付く甲高い声が聞こえてきます。
「そうともさ。俺もやられたよ」
夫の声が答えました。
「お前は右手、俺は左腕。二人とも利き手をやられるとはとんだ災難だねえ。全く、笑いごとじゃねえや」
笑いごとではないと言いながらその人は、くくく、と耳障りな笑い声を上げています。
「どなた?」
二人が話している居間に顔を出すと、小柄な男の人がこちらに背を向けて座っているのが目に入りました。卓袱台を挟んで夫と向かい合っているので、顔は見えません。
「おう、帰ったのか。……うちの家内だ」
夫がそのお客に対し、私を指し示すようにして言いました。
「ああこれはどうも。奥さんですか。いやぁ美人で羨ましい。うちのなんかてんで駄目で……」
振り向いたその人は、目の大きな小動物を思わせる顔立ちをしていました。値踏みするような視線が注がれているのを感じますが、あまり気にしないのが良いのでしょう。
「ああ、申し遅れました。わたくし南天と申します。以後お見知りおきを」
「南天さん、ですか?」
「そうです。植物の南天。旦那さんとは戦争中にN島でお世話になりまして……。いやはや全く、あの時は助かりました」