花少女
「桜が、」
言いかけて、ふと言葉を止めたのは、宮子だった。
彼女は、西洋風に後頭部の高い位置で結った髪の毛を、桜の花をモチーフにした簪のようなもので留めていた。私はその簪に目をやりながら、桜が何だって、と聞き返した。宮子は口元に指先の細い右手を当てながら、私に視線を合わせることもなく、呟くように答えた。
「桜の芽が、膨らんできたわ」
彼女の眼の先にあるのは、見るまでもなく桜の木だった。しかしそれは、病院の前庭に植えられているような古木ではなく、丈が低く、根の張り方も浅い、まだ若い木だった。
私と宮子は喫茶店の窓際に座って、それをぼんやりと眺める。向かいに座る宮子は、音もなく紅茶をすすった。私は、店内に流れ漂う旋律の断片を、とりとめもなく拾い集めてはまた放り投げることを繰り返していた。どこかで聞いたことがある曲のような気がするのに、何という曲だったか、思い出すことが出来なかった。それは全く重要なことではないのに、ともすれば頭の中がその曲に関する思考で一杯になりそうなほど、それに固執していた。宮子はそんな私に注意を払うこともなく、一人でいるかのように、沈黙を守っていた。
私と彼女の間には、渡れそうなのに渡る気になれないような、浅く流れの遅い、一筋の水の流れが横たわっているようだった。それは、橋を掛けてしまえば容易に渡ることが出来るはずなのだけれども、私たちにはお互いに、その橋を造るだけの資材が不足していた。そしてそれを、私たちは十分に理解してもいたのである。
窓の外は相変わらず寒そうだが、談笑しながら歩いていく学生達は寒風など気にしておらず、足取りも軽い。私は彼らの姿を目で追ったが、喫茶店の窓から見える範囲を逸脱した時点で目を逸らし、宮子の横顔をちらりと見た。彼女は相変わらず、桜の若木を見つめている。
「桜が好きなのかい」
私は、彼女の指先を見つめながら聞く。宮子はすぐには答えずに、少しの間じっと私を見ていたようだったが、やがて一言、分からないわと答えた。彼女の口癖がまた顔を出したことが気になったが、指摘することはしないで、そう、と肯いて見せた。私の答えがはなはだ曖昧にして糢糊としていたのにも関わらず、彼女は私の首肯に満足したようだった。彼女は、それがどういう種類のものであれ、誰かから肯定されることを喜びに感じる類の人間なのだ。
「そういえば、小夜子さんの具合はどうなって」
宮子は、思い出した風に問う。
「もう五ヶ月ほど、あそこに入院しているのでしょう。私が最後に会ってから、もう二ヶ月近く経っているし……、」
「元気そうだよ。どうしてまだあの病院にいなくてはならないのか、分からないくらいにね」
「そうなの。そう、……」
宮子は一瞬視線をさ迷わせた。薄蒼い目の輝きが、その瞬間にゆらと揺れ、また落ち着いた。彼女はその目で私を見て、小さな唇ではっきりと言った。
「私、小夜子さんに会いたいわ」
「妹に」
「ええ、小夜子さんに」
会ってどうするつもりなのか、私には分からなかった。宮子本人も、どうして自分が私の妹に会いたいのか、本当のところは分かっていないのに違いない。問うたところできっとまた、分からないわと言われるのに違いないと、私はぼんやりと考えた。
「駄目かしら」
探るようでもなく確認するようでもなく、ただ淡々と、宮子は私にそう聞いた。
「駄目なわけはないよ。小夜子もきっと喜ぶ」
「そうかしら」
「そうだよ」
宮子はまた、私から目を逸らして、紅茶を口に含んだ。その視線は、桜の枝に留まったまま動かない。会話をしている時には忘れかけていた楽曲が、再び私の思考を支配する。曲は途切れなく滑らかに続いているのにも関わらず、私の耳には変に切れて聞こえた。耳を澄まして注意して聞こうとするのに、宮子の簪がちらちらと視界に入って、妙に気になってしまう。