花少女
結局、私は林檎飴一つの他に、正二が射的で手に入れた手鏡を、妹の病室へ持っていくことになった。その手鏡には、裏に花の形をした飾りが付いていた。正二はそれをいささかうるさそうに眺めて、宮子にやればよかろう、と言う私の進言を無視した。宮子はこういう小物はもういくつも持っている、お前の妹君にやってくれ、とそう言うので、素直に受け取ることにしたのだった。
「じゃあ神崎、おれはここらで。まだ行くところがあるから」
正二は祭りの混雑からすり抜けた後にそう言い、ふらりと姿を消してしまった。仕方ないので、私はまた一人で電車に乗り、いつものように暗い構えの病院へとたどり着いたのだった。
病院へ入ると、正二のおかげで少しは平常に近づいた私の心が、またどこか深みへ沈みこんでいく錯覚が起きた。病院はいつも静かで、いつでも繁盛している。それは何処にもかしこにも病人が絶えないということを意味していたし、妹のほかにも、様々な病気を抱えた人間がこの世にはたくさんいるのだ、ということも意味していた。つまりは、不幸は私と妹にだけ付きまとっているわけではないということだ。だがだからと言って、自分たちの不幸が少しでも軽く感じられるかというと、そういうわけでもない。人は、自分の不幸と他人の不幸を天秤にはかることなど出来はしないのだ。
そういうわけで、私の足取りは自然重くなり、他人の不幸も自分の不幸も、所詮は単なる幻想に過ぎないのかもしれない、という考えにとらわれ始めるのだった。幻想にしろ何にしろ、そこにそれが見え隠れしているのは事実に相違ないことなので、こういう考えは正に詮無いこととしか言いようがあるまい。それでも、ここ数日の妹の状態を見ていると、そういう考えに沈まないほうがおかしいようにも思えてくる。
「小夜子、来たよ」
妹の病室に入って、横たわる妹に声を掛ける。眠っていたらしいが、気配を感じたのかすぐに目を開けて私を見、うっすらと口を笑みの形に近づけた。
「お兄様……」
「今日は遅くなって済まなかったな。正二と一緒に近くの神社の祭りに行ってきたんだ。ほら、お土産だ」
言って、私は妹にも良く見えるように飴と手鏡を掲げて見せた。
「まあ、有難う」
妹の声は、弱弱しく、私の耳に届いた。
彼女の体には、もう管は一本しかない。点滴をされているだけだ。傍から見るとそれはもう回復しかけの人間であろうが、妹の場合はそうではない。
「そういえばお兄様、あの林檎、お兄様が下さったあの林檎」
「それがどうかしたのか」
「――捨てられてしまいました」
一拍の間をおいて、妹は沈んだ声で言った。もうとっくに食べられる時期など過ぎていたのだから仕方のないことだ。
「それならほら、代わりに林檎飴を眺めるといい。好きだったろう」
「……そうね。ええ、林檎飴も好きよ……」
肯いて、妹はしばらく黙っていた。私も、話題を探すことも忘れて、捨てられてしまった林檎の赤みを思い出そうとしていた。しかし、なかなか上手くいかない。赤色を想起しようとするたびに、妹に巣食う花の白色が邪魔をした。その白さは妹の顔色であり、妹に対して私が抱いている感情の表れでもあった。穢れのない白さ――しかしそれは、これから穢される可能性の存在をも意味している。
「お兄様、……私、どうなってしまうのでしょうね」
「……どうなってしまうとは、どういうことだい。お前は別に、何ともないさ」
珍しい妹の弱音に、私はたじろぎ、逃げ出したくなる。こんなことを言う奴ではなかった。こんな眼で私を見るような奴ではなかった。
妹は微笑をたたえたままで私を見上げていた。それは病人の眼差しではなかった。それは死の気配を感じて怖気づく者の微笑ではなかった。なんと形容すれば良いのか、それは言うなれば、慈悲を含んだ聖母の眼。世界の構造を悟った修験者の口元。私の全てを包容するかのような微笑だった。
私はそれらから逃げたくなり、同時に彼女の胸元に飛び込みたい衝動に駆られる。それは邪な衝動ではなかった。圧倒的に美しいものを目の当たりにしたときに自然と何かにひれ伏したくなるその瞬間の感情に、よく似た衝動であった。そしてそれは、私の深い哀しみにも起因しているものだった。