花少女
杉木医師はハンカチをしまい、またほんの少しの間沈黙を保っていたが、やがて口を開いた。
「これを、ご覧ください」
言いながら杉木医師が取り出したのは、レントゲンで撮影された写真二枚だった。
「これは小夜子さんの肺を写したものです……こちらが治療後に撮ったもの」
そう言って、彼は私から向かって左の方の写真を指し示した。
「そしてこちらが、つい先週撮ったもの、です」
そう言って、彼は右の方の写真を示す。一見すると何が違うのか、私には分からなかった。杉木医師は私がその間違い探しに正解するまで待つ気は毛頭ないらしく、すぐに両手の指で、両写真の一部を指した。
「ここをご覧ください。ほら、何かの影が写っているでしょう」
そう言われても私には、杉木医師の指の先に、何も見出すことが出来なかった。杉木医師は根気良く指で指し続ける。そのうちに、私もその二枚の写真に違った箇所があることに気づいた。左の写真には何も写っていない場所に、右の写真でははっきりと、小さいながらも何かの影が見えている。
「何ですか、これは」
「それが、分からないのです」
「分からない、と言いますと」
無意識のうちに、焦ったような口調になってしまっていた。
私は、医者と言うものは絶対に「分からない」などという不明瞭な言葉を使わないと信じていたため、杉木医師の言葉に混乱した。医者に分からないものなど、あってたまるものか。
「この影の正体は、どうも……」
曖昧な杉木医師の態度に、私は、憤慨に変わりかけていた混乱が、再び頭を支配するのを感じた。杉木医師はそういう私の表情の変化に気づいたのか、語尾をぼかすのを止め、言った。
「神崎さん、今の状態では、何とも言えないのです。この影の正体が何なのか……まだ、断定することが出来ないのです」
「でも、それなら何故、今日私を呼んだのです」
「……小夜子さんのお兄様でいらっしゃる貴方には、どんな些細なことでもお知らせしておくのが良いかと思いましてね。貴方のことを話すときの小夜子さんが、いつもとても楽しそうなので、……」
その言葉に、私は言い返す言葉を失った。
「小夜子さんは、本当に家族思いの良い子です。いつも、回診の度に貴方やお母さんの話を聞かせてくれるのですよ。ご両親から離れて、こんな病院に一人きりで……ああ、いや。貴方もこちらにいらっしゃったんでしたっけね」
「ええ。もう長いこと、両親とは離れて、私と小夜子の二人きりで過ごしておりました」
杉木医師は、一つ肯いた。先ほどまでの曖昧模糊とした態度は影を潜め、今はただ、穏やかな微笑を浮かべている。私もそれにつられたのか、いつの間にか落ち着きを取り戻していた。
「小夜子さんも良い妹さんですが、貴方も良いお兄さんでいらっしゃる。長期にわたって入院しなくてはいけないという時に、心細さを紛らわせてくれるのは家族ですからね」
「……妹も……、心細いと、思うことがあるんでしょうか」
「それはそうでしょう。小夜子さんはしっかりしている方だけれど、それでもまだ、ほんの子供です。そうそう、小夜子さんはこの町の学校に通っていたんでしたね。実は私の母校なんですよ、そこは……。小夜子さんの話によると、大分様変わりしてしまったようですがね」
杉木医師は、楽しそうに笑った。私も一緒に微笑みながら、肯いた。
「私は、その学校の臨時講師をしているんです」
「おや。そうでしたか……、それはまた、面白い偶然ですね」
杉木医師は言いながら二枚の写真を封筒に収めた。その仕草によって、忘れかけていた不安を、思い出してしまう。正体の分からない影。
「杉木先生、妹は……。妹は、本当に優しい、思いやりのある子なんです。どうか、」
「安心してください、神崎さん」
杉木医師は、私の言葉を遮って、落ち着くように手で示した。私は、浮かしかけた腰を、再度椅子に降ろす。
「もう何度か精密に検査を行って、きちんとした結果が出るまで、待っていてください。そのときになれば、おのずと退院の目処もたつことでしょう」
「退院……。もし何もなければ、妹は退院できるということですか」
「検査の結果次第ですよ、それは」
杉木医師が肯いて、立ち上がる。腕時計に視線を走らせたところから見て、もうそろそろ仕事を再開しなければならないのだろう。私も続いて立ち上がり、礼をした。
「妹を、よろしくお願いします」
「ええ。……神崎さん、」
「はい」
杉木医師は急に真剣な目つきになって、私を見た。
「どうか、小夜子さんの支えになってあげて下さいね」
彼はそう言って、俯いた。