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月のきれいな夜でした

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 断る理由は無かった。でも、なんて言えば良いのか分からなくて、返事をできないまま、少しだけ席を空けた。
「ありがと」隣に座ったトオルからは、ほんのり石鹸の匂いがした。お風呂上がりだったんだろうか。並んで座った私たちは光で照らされた向こうの闇を見ていた。
「結婚、するんだってな」コーヒーを飲む喉の音がよく聞こえた。
「狭い村だね」昼の話が夜にはこれだ。私は思わず笑ってしまった。
「そうだな」トオルも笑った。
 暗闇の中から虫の音がリーンリーンと聞こえる。
「会社潰れたんだってね」遠慮はいらない。
「狭い村だな」また二人で笑った。
 リーンリーン。
「潰れた、つっても自主廃業だからな。借金があるわけじゃないし気楽なもんだよ」
「ご両親は?」
 タカコちゃんがお嫁に来てくれたらいいんだけどねえ、とよくからかわれた。案外、あの頃の私と同じで、本気だったかもしれないけど。
「ギリギリ滑り込みで年金生活だよ。儲けを考えなくてもよくなった、ってんでオヤジは趣味で焼き物やってるよ」
 人の気も知らないでさ、と呆れるように続けた。
「そう、とりあえずその心配がないだけ良かったわね」
 あなたはどうするの?
 その質問を飲み込んだ。聞いてはいけない。聞けば私はこの村に心を残す事になる。それは結婚を申し込んでくれた彼に対する冒涜だ。

「それにしても、タカコは変わってないな」
 トオルはチラッと私を見て、また闇へと視線を戻した。
「そう?」確かに気合は入ってないけど。
「うん、笑うとあの頃のままだ」
 なんでもない顔をしてそういう事を言う。そう、この天然に幼い私もやられたのだ。危ない危ない。気を抜くと焼けぼっくいに火がつきそうだ。
「ありがと」少し顔が熱くなるのを感じたが、赤くなっていない事を祈った。
 高校の頃から数えれば十年を超える。その間、この人からは何もなかった。つまりはそういうことだ。天然で思わせぶりなのだ。
「でも、そういう事は、あまり色んな人に言わない方がいいですよ」
 十年ぶりの忠告、というのもおかしな話だ。私の言葉を聞いて意外そうにトオルが顔を向けてきた。
「タカコにしか言ったことないぞ」心外だ、と言いたそうな表情。
 え。顔が急激に熱くなる。ああダメだ。私は立ち上がって、灯りの当たらない暗闇の中に入り、うろうろと歩いた。酒の一本でもくすねてくれば良かった。そうすればごまかせたのに。
「まあ、タカコ以外の女性と喋る事なんてほとんどないけど」
 またやられた。
 脱力感に膝から崩れ落ちそうになる。そういえば、同窓会にも来てなかったなコイツ。学生時代から少し浮いていたけど、今でも村に馴染んでないらしい。
「さっさと見合いでもして、結婚したら?」
 悔し紛れに嫌味をぶつけた。でも、言った直後に少し後悔した。きつかったかもしれない。
「会社潰して絶賛無職中の男だよ。見合い相手も見つからないよ」
 トオルは声をあげて笑った。暗闇の中から見るトオルは光の中で笑っていた。言われてみればそうか。私も少し笑った。
「でも、いいかげん本気の相手とか探さないとやばいんじゃないの?」
 安心した私は続けて意地悪を言った。今度はトオルも笑顔を消して困った顔をして、ごまかすように「あ」と話を変えた。
「今日は月がすごいきれいだよ」
 トオルはベンチに座ったまま空を仰いだ。私もつられて空を仰いだ。
 すぐそばに街灯があるおかげで、星はほとんど見えなかったけれど、まん丸の月が空に浮かんでいた。小さな雲がかかって、より一層、月の美しさを引き立たせた。
「ホントだ」
 虫の音が少し大きくなった。リリーンリリーン。

 月がキレイなのは何故だろう。あの頃は月を見ても何も思わなかった。トオルは月や星に興味があったようだったけれど、私はとんと興味が持てなくて、話を聞きながらあくびをして気を使わせたような気がする。
「そういえば、あの湯呑み、まだ持ってる?」
 近いところから聞こえた声に、急に現実に引き戻される。振り返ると、暗闇の中でトオルが立っていた。手を伸ばせば届きそうな距離。
「うん、多分、実家の押入れに」
 しまった。とっさに本当の事を言ってしまった。
「ひどいなあ。あれ、いい出来なんだから使ってよ」
 トオルはまた笑った。この笑顔をずっと見ていられるとあの頃は思っていたんだ。
「ん? あの頃『初めて焼いた』って言ってなかったっけ?」
 初めての仕事がいい出来って、いいかげんだ。
「あ、ごめん。それ嘘。ちょっと見栄を張りたい年頃だったんだよね」
 トオルは照れた顔で、一歩、また一歩と闇の中へと続く道をゆっくり後ろ向きに歩いていく。もう帰るのか。
「じゃあ、分かった。使うよ」
 あの頃は、何の変哲もない湯呑みにしか見えなかったけど、今見ればまた違う見方が出来るかもしれない。月を美しいと思えたように。
「絶対だよー! じゃあねー!」
 顔はもう見えなくなっていたけど、声だけで笑っている事が分かった。きっと手も振ってる。私も手を振り返した。見えてなくてもいい。
「うん、じゃあねー!」
 虫の音が響く中、トオルの足音が遠ざかっていくのを聞いていた。
 本当に優しくて、優しくて、この村そのもののように優しい人だった。あの人は私を責めない。それがくすぐったくて、私はつい甘えてしまった。昔も、そして今夜も。
 灯りの下の中にたたずむ自転車の元へと戻った。帰る前にもう一度、空を見上げると、街灯の光がまぶしくて月は見えなかった。

「彼は昼過ぎに到着予定だから、そのつもりでいてね」
 翌朝、二日酔いに苦しむ父に伝えた後で、私は自分の部屋の押入れを漁っていた。出てくる出てくる「なんでこんなの取っといたんだろう」なものが山盛りてんこ盛り。めいっぱい詰め込まれた思い出のガラクタを部屋に並べていく。足の踏み場も無くなりかけた頃、押入れの隅に、その桐箱を見つけた。
「うわ、桐箱だって。気合入りすぎだろ私」
 多分、骨董を趣味としていた亡き祖父の桐箱をくすねたんだろう。そういえば「トオルが将来すごい大物になったら価値がつくかも!」と思った覚えがある。若い頃は夢見がちで、過ちを犯しがちである。
 蓋を開けると新聞紙にくるまれた湯呑みが出てきた。新聞紙の日付と書かれたニュースが懐かしい。湯呑みを手にとって慎重に観察してみる。
 やっぱり何の変哲も……あ!
 私はとんでもない事に気付いてしまった。

「今日は父が寝こんでしまった為、無理になりました。すいません」
 彼に一本メールを送ると、私は自転車でトオルの家へと急いだ。車でも良かったけど、今の気分で落ち着いて運転できる自信はなかった。
 暑い日差しの下で見る故郷は田んぼと畑だらけだったけど、嫌いな景色じゃなかった。めいっぱいペダルをこいで、トオルの家を目指す。
 額から流れ落ちる汗をぬぐいながら、自転車をトオルの家の前に停めた。
 玄関の呼び鈴を鳴らすと「は~い」と間延びした声が聞こえて、トオルのお母さんが出てきた。
「あら、タカコちゃん! おはよう。どうしたの?」
 息子の元カノの登場に面食らいながらも、聞きなれた落ち着いた声。
「おばさん、おはよう。ちょっと失礼します」
作品名:月のきれいな夜でした 作家名:和家