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月のきれいな夜でした

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 おばさんの脇を通って靴を脱いで家にあがった。目指す本丸は二階奥。勝手知ったる元カレの家である。階段を登り、狭い廊下の突き当たりにあるふすまは、記憶よりも少し渋い色合いになっていた。
 開けると、そこは高校時代の部屋だった。ブラウン管の小さなテレビ、カセット式のゲーム機、積まれた漫画雑誌、万年床は「いかにも」な感じが怖かったので、私が来る時は布団を片付けさせていた。その布団を片付けているのは……今のトオルだった。
 頭を軽く振ってから見直すと、テレビは液晶テレビ、つながれているゲーム機は見慣れない黒い機械になっていて、漫画雑誌の代わりに陶芸雑誌が積まれていた。記憶と思い出がごっちゃになったらしい。
 しっかりしろ私。
「おはよう、タカコ、どうしたの?」
 布団を畳みながら、トオルが昨日見た格好のまま、いつもののんびり調子で言う。そう、こいつのせいだ。私は持ってきた湯呑みを無言で突きつけた。その湯呑みに描かれているのは。
「今見ても、よく描けてるなあ」持ち上げた布団越しに見てきた。
「そうじゃないわよ!」
 私は大声をあげた。何故、怒っているのか、自分にも分からない。私は続けて思いの丈をぶちまけた。
「なんで『月』が描かれている事をあの時、教えなかったのよ!」
「え」トオルは間の抜けた声を出して振り向いた。
 押入れの上の段に中途半端に押し込められていた布団がベロンと床に滑り落ちる。

 湯呑みには丸い月が描かれていた。トオルは『月』を私に見立てて贈ったのだ。でも、蛍が飛ぶほど暗い中で手渡されたから、私はそれに気付かなかった。しかも、あろうことか、私はその湯呑みを帰宅後、ロクに見ないまま桐箱に入れて、閉まってしまったのだ。
「それ、僕のせいかなあ」
 瞬時に事情を理解したトオルがぼやいた。
「そうよ!」
 もう強気なんだかヤケなんだか分からない。今までにやり取りしたメールにも月の話はたくさんあった。思い返せば、どれもこれも月を褒める内容だった。それに対して自分はなんと返していたか。「そうね」とか「ふーん」とか「そんなことよりお腹すいた」とか返していた気がする。これじゃまるで私が!
「タカコは昔から、にぶかったからなあ」
 落ちた布団を押入れにしまい直して、トオルはため息をついた。トオルに溜息をつかれるなんて、それこそ十年ぶりだ。
「ち、違う!」でも、反論できない。ただの湯呑みだと思い込んだのは自分だ。
「十年間、全部空振りだったのか」
 トオルは、あーあ、とまたわざとらしく溜息をついた。
「それもこれもあんたが」違う。悪いのは私だ。
「僕が?」とぼけた顔でいつもの柔らかい笑みを浮かべている。
「ぐっ」もう後には引けないかもしれない。
 そう思った時、彼の顔が浮かんだ。初めて出会った場所、よくデートした街、彼の好きな食べ物、彼の笑顔、彼の疲れた姿、彼の体温、彼の、彼の、彼の。
「でも、僕は無職だから結婚できないよ」
 トオルは笑った。
 その笑顔で、彼の事が頭から消えていく。ごめんなさい。私を好きになってくれてありがとう。でも、私が好きなのは、やり直せるのなら、と何度も願ったのは。
「分かったわよ! 私が稼ぐわよ!」
 あれ、私、なんか言ってる事おかしくない?
「はい?」
 トオルの顔からも表情が消えてポカンとした。半開きの口のマヌケ面。ああ、本当に私、なんでこんなのを!
「だから! 私と結婚しなさい、つってんの! 私が稼ぐから! あんたは家事やんなさい! 湯呑み作ってたんだから皿洗いぐらい出来るでしょ!」
 どうしてこうなったんだろう。いつからこうだったんだろう。
「いや、陶芸と皿洗いはあんまり関係ないけど」
 きっと、昨日の月を見てしまったからだろう。
「うるさい! 結婚しろ! 返事は?」
 気づけば、手を伸ばせば届きそうな距離。私は更に一歩詰め寄った。
 トオルは大声で言う私を見て、柔らかく笑った。
「はい」
 その笑顔をもっと見たい、と思ったけれど腕に包まれて見えなくなる。悪い気はしなかった。


 史上最低のプロポーズだと、後で心底反省した。
作品名:月のきれいな夜でした 作家名:和家