月のきれいな夜でした
三十路手前の女。ラスト五秒の逆転満塁ホームランでこの度、結婚する事となりました。お相手は都内で働くちょっと忙しめのサラリーマン。
「年が年だから披露宴は勘弁して」
と言うと父は渋々「でも式は譲らんぞ」と真昼間からビールを仰いだ。母は「あちらさんの親族にはきちんとご挨拶するのよ」と釘を刺してきた。いまどき結婚式や親戚づきあいってのも流行らないと思うんだけど、田舎の人たちだから仕方ない。
結婚するといっても何が決まったわけじゃない。三年ほど前に付き合い始めた相手といつのまにか一緒に暮らし始めて、三年目の初デート記念日に彼が「こういう事はきちんとけじめつけないと」と結婚を申し込んできたのだ。ちなみに私は記念日の事をすっかり忘れていた。
こう言うと、なんだかえらいサバサバとしたドライな関係に思えるかもしれないけれど、それなりに熱い時期もあったし、倦怠期も乗り越えたのだ。「好きか?」と聞かれれば、好きだと即答できる。だから、結婚の話が出た時もそんなに意外じゃなかった。きっとこの人なら言うだろう、と思っていた。
仕事が忙しくて一緒にいられる時間も少ないし、決して万人を幸せにするような人じゃない。でも、私がつらい時にはきっと駆けつけてくれるだろう。そう思える人だったから、結婚も謹んでお受けした。
本来、こういう話は「娘さんをください」と彼がすべきなんだろうけど、彼の到着は明日になる。今夜の同窓会に参加する為に先に帰省した私がジャブがてら説明しといたのだ。父も年だし、ショックが小さいに越した事はない。
「それじゃ、行ってきます」
父の酒のペースが若干早いと思ったけれど、母に任せて家を出た。
家のママチャリを借りて会場の料理屋を目指す。こんな田舎でそこまで色気を出す事もない。久しぶりに乗ったママチャリで道に「こんにちわ」しているバッタやカエルを避けながら、ふらふらと進んだ。
「ろぉ! タカコ、久しルり!」
『夕方六時から』と案内に書いてあったはずで、今は六時前のはずだけれど、幹事であるはずのツヨシ先輩は周りの仲間たちと一緒にすでに出来上がっていた。ろれつの回らない舌で「俺は馴染みだから、休みの日はいつもここにいる」と主張した。店にとっては迷惑な話だろう。
同窓会といっても世間一般の同じ学年で集まるソレとは違う。学校自体が全校生徒十人ぐらいの規模だったので、同窓会と言うと「来たいやつは全員来い」という意味になる。すでに二十人ぐらいいるけれど、半分ぐらいは知らない顔だった。
「タカコ、こっちこっち!」
出来上がった幹事陣から座敷の反対側に女子の集団がいた。思春期という黒歴史を共有しあった仲間たちだ。気持ちが喉まであがってきたのか、返事をする私の声が少し高くなった。
今の話、これからの話、古い話、尽きる事のない話のリズムに合わせて、わずかばかりのアルコールを体にめぐらせる。すでに子供が中学にあがる、という人もいる。仕事も厳しく、私生活にも運が巡ってこない人もいる。色んな今があるけれど、笑い声はあの教室のままだった。楽しすぎて少し涙が出た。久しぶりに大声で笑った。
「そういえば、トオルさんの話聞いた?」
少し声のトーンを抑えながらサチコが話し始めた。名前を聞いて、枝豆を剥く手が一瞬止まる。
「なんかほら窯焼きだっけ? 家業が潰れちゃったらしいよ」
「あ、知ってる。でも、トオルさんは他の会社に拾ってもらうとかなんとかよく分かんないのよね」
トオルは私より一個上で物静かな人だった。私は年賀状やたまのメールで「晩飯何?」とか「満月がきれい」とかどうでもいいやり取りをしていたけど、最近はメールの返事も少しそっけない印象だったので、てっきり彼女でも出来たと思っていた。
そうか、家業が潰れてたのか。そりゃ元気も無くなるわね。
「でも、十年前には思いもしなかったなあ。タカコが都会で結婚するなんて」
「そうそう。てっきりトオルさんとくっつくと思ってたもんね」
狭い村とはいえ、やっぱりバレてたのか。
出会いの選択肢が限られた子供の頃の話だ。私もそうなると信じていたし、疑いもしなかった。缶ジュースを飲みながら歩くぐらいしかやることのない狭い世界の外に、曖昧な関係なんて秒単位で引き裂いていく強くて広い世界がある事をその頃の私は知らなかった。
汗だくのトオルさんが「初めて焼けた」と持ってきた何の変哲もない湯呑みを受け取ると、その湯呑みに蛍がとまって、トオルさんが手を振って追い払おうとしたんだけど、飛び去ってはまた湯呑みに戻ってくる。私が声をあげて笑うと、トオルさんも照れたように笑った。
幼い私は、その世界がずっと続くと思っていた。
夜も十時を過ぎ、店主と奥さんに追い出されるように、外に出た私たちはお開きとなった。こんな年になれば、そうそう休めない明日がある。幹事とへべれけな仲間たちだけが「二次会だ!」と千鳥足で街灯の少ない闇へと消えていった。
皆と別れた後、私はもう少し余韻に浸っていたくて、自転車に乗って村の中をぐるりとまわった。少しの期待が胸に灯ったけれど、期待はするな、と自分でその火を消した。
相変わらず何もない。街灯もない。誰一人歩いていない。自転車のライトがやけに明るく、発電機の回る音が少しうるさく感じた。
しばらく走ると街灯が照らす一角があった。子供の頃から通い慣れた食料品店だ。当然もう閉まっているけれど、店の前に置かれた自販機が夜に不釣合いなぐらい明るかった。
「そういや、喉乾いたな」
自転車を停めて自販機をチェックすると、意外とキレイで安心した。
ペットボトルのお茶を買って飲む。口を通って、体の中までスッキリした。
お客様用に置かれたベンチに座って、街灯で照らされる道よりも向こう、畑や田んぼが広がっているであろう暗闇を見つめていた。
私はこの村には戻ってこなかった。
大学卒業を控えて就職を探し始めた頃、それまでにないぐらいの不況だった。それまで「田舎なら食うには困らん」とのんきに言っていた両親も言葉を濁した。あちこちで「この村はもう無理だ」と囁かれ始めた。どうして不況になるのか、どうして田舎がダメなのか、経済コラムにはもっともらしく理由が書かれていたけれど、私にはどれもピンとこなかった。
結局、私は都会で暮らしていく事にした。早歩きで歩いていれば故郷を忘れられる。幼かった自分の願いも満員電車に乗ってしまえば、追いかけてこなかった。村では出来ない贅沢も憶えて、その贅沢を気兼ねなく出来る生活を手に入れた。でも、この村は私を責めない。
感慨にふけっていると、遠くから足音が聞こえた。ペタンペタンとサンダルの音。長年の都会暮らしが身にしみていた私はさりげなく、けれど素早く自転車に乗って逃げようとした。
でも、無言で逃げて知り合いだったら、ちょっと困るかも。いつでも逃げられる体勢のまま、足音の主が灯りの下に現れるのを待った。
「あ」
どちらの声かは分からなかった。
灯りに照らされたその顔は、少し痩せていたけれど見間違えるはずもない。トオルだった。
「帰ってきてたのか」
「うん」うなづく私から目線を外して、トオルは自販機で缶コーヒーを選んだ。
「隣、いいか」
「年が年だから披露宴は勘弁して」
と言うと父は渋々「でも式は譲らんぞ」と真昼間からビールを仰いだ。母は「あちらさんの親族にはきちんとご挨拶するのよ」と釘を刺してきた。いまどき結婚式や親戚づきあいってのも流行らないと思うんだけど、田舎の人たちだから仕方ない。
結婚するといっても何が決まったわけじゃない。三年ほど前に付き合い始めた相手といつのまにか一緒に暮らし始めて、三年目の初デート記念日に彼が「こういう事はきちんとけじめつけないと」と結婚を申し込んできたのだ。ちなみに私は記念日の事をすっかり忘れていた。
こう言うと、なんだかえらいサバサバとしたドライな関係に思えるかもしれないけれど、それなりに熱い時期もあったし、倦怠期も乗り越えたのだ。「好きか?」と聞かれれば、好きだと即答できる。だから、結婚の話が出た時もそんなに意外じゃなかった。きっとこの人なら言うだろう、と思っていた。
仕事が忙しくて一緒にいられる時間も少ないし、決して万人を幸せにするような人じゃない。でも、私がつらい時にはきっと駆けつけてくれるだろう。そう思える人だったから、結婚も謹んでお受けした。
本来、こういう話は「娘さんをください」と彼がすべきなんだろうけど、彼の到着は明日になる。今夜の同窓会に参加する為に先に帰省した私がジャブがてら説明しといたのだ。父も年だし、ショックが小さいに越した事はない。
「それじゃ、行ってきます」
父の酒のペースが若干早いと思ったけれど、母に任せて家を出た。
家のママチャリを借りて会場の料理屋を目指す。こんな田舎でそこまで色気を出す事もない。久しぶりに乗ったママチャリで道に「こんにちわ」しているバッタやカエルを避けながら、ふらふらと進んだ。
「ろぉ! タカコ、久しルり!」
『夕方六時から』と案内に書いてあったはずで、今は六時前のはずだけれど、幹事であるはずのツヨシ先輩は周りの仲間たちと一緒にすでに出来上がっていた。ろれつの回らない舌で「俺は馴染みだから、休みの日はいつもここにいる」と主張した。店にとっては迷惑な話だろう。
同窓会といっても世間一般の同じ学年で集まるソレとは違う。学校自体が全校生徒十人ぐらいの規模だったので、同窓会と言うと「来たいやつは全員来い」という意味になる。すでに二十人ぐらいいるけれど、半分ぐらいは知らない顔だった。
「タカコ、こっちこっち!」
出来上がった幹事陣から座敷の反対側に女子の集団がいた。思春期という黒歴史を共有しあった仲間たちだ。気持ちが喉まであがってきたのか、返事をする私の声が少し高くなった。
今の話、これからの話、古い話、尽きる事のない話のリズムに合わせて、わずかばかりのアルコールを体にめぐらせる。すでに子供が中学にあがる、という人もいる。仕事も厳しく、私生活にも運が巡ってこない人もいる。色んな今があるけれど、笑い声はあの教室のままだった。楽しすぎて少し涙が出た。久しぶりに大声で笑った。
「そういえば、トオルさんの話聞いた?」
少し声のトーンを抑えながらサチコが話し始めた。名前を聞いて、枝豆を剥く手が一瞬止まる。
「なんかほら窯焼きだっけ? 家業が潰れちゃったらしいよ」
「あ、知ってる。でも、トオルさんは他の会社に拾ってもらうとかなんとかよく分かんないのよね」
トオルは私より一個上で物静かな人だった。私は年賀状やたまのメールで「晩飯何?」とか「満月がきれい」とかどうでもいいやり取りをしていたけど、最近はメールの返事も少しそっけない印象だったので、てっきり彼女でも出来たと思っていた。
そうか、家業が潰れてたのか。そりゃ元気も無くなるわね。
「でも、十年前には思いもしなかったなあ。タカコが都会で結婚するなんて」
「そうそう。てっきりトオルさんとくっつくと思ってたもんね」
狭い村とはいえ、やっぱりバレてたのか。
出会いの選択肢が限られた子供の頃の話だ。私もそうなると信じていたし、疑いもしなかった。缶ジュースを飲みながら歩くぐらいしかやることのない狭い世界の外に、曖昧な関係なんて秒単位で引き裂いていく強くて広い世界がある事をその頃の私は知らなかった。
汗だくのトオルさんが「初めて焼けた」と持ってきた何の変哲もない湯呑みを受け取ると、その湯呑みに蛍がとまって、トオルさんが手を振って追い払おうとしたんだけど、飛び去ってはまた湯呑みに戻ってくる。私が声をあげて笑うと、トオルさんも照れたように笑った。
幼い私は、その世界がずっと続くと思っていた。
夜も十時を過ぎ、店主と奥さんに追い出されるように、外に出た私たちはお開きとなった。こんな年になれば、そうそう休めない明日がある。幹事とへべれけな仲間たちだけが「二次会だ!」と千鳥足で街灯の少ない闇へと消えていった。
皆と別れた後、私はもう少し余韻に浸っていたくて、自転車に乗って村の中をぐるりとまわった。少しの期待が胸に灯ったけれど、期待はするな、と自分でその火を消した。
相変わらず何もない。街灯もない。誰一人歩いていない。自転車のライトがやけに明るく、発電機の回る音が少しうるさく感じた。
しばらく走ると街灯が照らす一角があった。子供の頃から通い慣れた食料品店だ。当然もう閉まっているけれど、店の前に置かれた自販機が夜に不釣合いなぐらい明るかった。
「そういや、喉乾いたな」
自転車を停めて自販機をチェックすると、意外とキレイで安心した。
ペットボトルのお茶を買って飲む。口を通って、体の中までスッキリした。
お客様用に置かれたベンチに座って、街灯で照らされる道よりも向こう、畑や田んぼが広がっているであろう暗闇を見つめていた。
私はこの村には戻ってこなかった。
大学卒業を控えて就職を探し始めた頃、それまでにないぐらいの不況だった。それまで「田舎なら食うには困らん」とのんきに言っていた両親も言葉を濁した。あちこちで「この村はもう無理だ」と囁かれ始めた。どうして不況になるのか、どうして田舎がダメなのか、経済コラムにはもっともらしく理由が書かれていたけれど、私にはどれもピンとこなかった。
結局、私は都会で暮らしていく事にした。早歩きで歩いていれば故郷を忘れられる。幼かった自分の願いも満員電車に乗ってしまえば、追いかけてこなかった。村では出来ない贅沢も憶えて、その贅沢を気兼ねなく出来る生活を手に入れた。でも、この村は私を責めない。
感慨にふけっていると、遠くから足音が聞こえた。ペタンペタンとサンダルの音。長年の都会暮らしが身にしみていた私はさりげなく、けれど素早く自転車に乗って逃げようとした。
でも、無言で逃げて知り合いだったら、ちょっと困るかも。いつでも逃げられる体勢のまま、足音の主が灯りの下に現れるのを待った。
「あ」
どちらの声かは分からなかった。
灯りに照らされたその顔は、少し痩せていたけれど見間違えるはずもない。トオルだった。
「帰ってきてたのか」
「うん」うなづく私から目線を外して、トオルは自販機で缶コーヒーを選んだ。
「隣、いいか」
作品名:月のきれいな夜でした 作家名:和家