パンドラの鍵
彼女はしばらくの間、過去に思いを馳せているようだった。
「奥様は病弱な方だったわ。滅多に外出なさらなくて、いつも読書
か編み物をしていらして。雅弘君はとにかくもう可愛かったわね。
将来ハンサムになりそうな感じだった」
そこまで言ってから、彼女は急に表情を曇らせた――。
「でも、あの日。いまでも信じられないのよ。恐ろしい、どうして
あんなことになってしまったのか」
「二人の身になにか起こったんですか?」
「そうよ。身も震えるような恐ろしいことが……」
貴之は生唾をごくりと飲み込んだ。
のどが妙にからからになっている。彼女の話は続いた。
「あの日、今でも明確に覚えているわ。そうね、夏だというのにコ
ートが必要なぐらいに冷え込んだ日だった」
「夏なのに……」
「えぇ、その日だけね。今思えば、天候自体が何かよくないことが
起こるのを、予期していたのかもしれないわね」
「………」
「そして私はいつも通りに、五時過ぎに夕飯の買い出しに出かけた」
窓ガラスに打ちつける雨足は、さきほどより威力を増しているよう
だった。