パンドラの鍵
「沙織…」
貴之の口元から思わず彼女の名が零れる。
貴之が、初めて心を開いた女性だった。
本当に愛していた。
まだ学生ながらいずれは、将来さえと考えていたのに…。
大好きだった沙織の話しかたも、少し人間離れしたしぐさも表情も、
今となっては全ておぼろげで霞んで見える。
沙織との出会いも仕組まれたものだと気づいてしまった今では…。
貴之は拳で床を叩き続けた。いつまでもいつまでも叩き続けた。
感情までコントロールされていた自分自身を屈辱に思いながら…。
沙織は大学の教授の娘だった。殺風景な研究室で、ひとりゼミのレ
ジュメを書き上げている最中に、何の前触れもなく彼女は一陣の風
とともに現れた。
「お父さん!」
そう叫んで飛び込んできた沙織は、室内に父の代わりに貴之の姿を
見つけると決まりが悪そうに俯いた。
春先の雨に打たれてきたのだろう、前髪からポタポタと水滴が零れ
落ち、足元を濡らしていた。
「ごめんなさい。あの、私、父に呼ばれて……」
「お父さんって」