人魚の飼い方
人助けではなく、人を絶望の千尋の谷に突き落とすのが趣味ではないのか?と、私は思わず突っ込みたくなったのは言うまでもない。
「それを聞いて安心しました。この間もあなたに話した通り、事はわたしにとっては沙翁のハムレットの悩みも、ちんけに感じられるくらい重大なものなのです」
男は、元々深刻そうな造形をしている顔を、さらに深刻そうにした。ベートーベンだって、真っ青な深刻そうな顔だった。私は彼の瞳の奥に何か思い詰めたような暗い炎がチロチロと見え隠れしていた事が解った。なんとなく、この場から背を向けて逃げてしまいたいような気にさせられる。それを、玲は解っているのだろうか。いや、解っているのだろう。玲の顔に浮かぺられた表情が、そのことを能弁に語っていた。
いったい、玲はこれから何をする気なのであろうか。神ならぬ私には皆目解らない。しかし、解らない中でもなんとなく、厭な予感がした。しただけ、マシだと思って下さい。
「貴方の飼っている人魚の様子がおかしいのでしたね」
なるほど。それでは、幾ら私が海岸に散歩に出掛けても彼に会えないはずである。私は自分の浅はかさに低く笑い声を洩らした。その笑い声は有り難いことに、誰にも気付かれずに済んだ。いや、もしかしたら玲は気がついていたかもしれない。笑いを堪えているように微かに玲の肩が動いたような気がした。
「ええ、今まで何匹も海岸で拾って来ているのですが、どれもこれも、すぐに弱ってしまうんです。わたしの飼い万のどこがおかしいのでしょうか」
男はそんな玲の様子には気づかずに淡々と喋る。それにしても、そんなに人魚が何匹も直ぐに見つかるだろうか?私の頭にふと疑問が過る。そもそも、人魚の正しい飼い方はあるのだろうか。当然ながら、人魚の飼い方のマニュアルは書店では見たこともない。
「さあ、まず見てないことにはどうしようもありませんね」
玲は謎めいた笑いを顔に掠めさせた。当惑している私に軽く笑いかけ、妙に楽しげだった。
「そう仰ると思って、こちらの部屋に彼女をつれてきています。本当は彼女が嫌がるので窓のある部屋には連れて来たくはなかったんですけどね」
作品名:人魚の飼い方 作家名:ツカノアラシ@万恒河沙