灰色の双翼
月の光に照らされた白い浜辺。静かな夜の闇の中に、小さないくつもの波が繰り返し砂浜に打ち寄せる。
そんな静かな中、レイスは腰まで海に浸かって水浴びをしていた。長い金髪が水に濡れて、月の光を受けてきらきらと輝く。水に浸かった下半身の腰骨の辺りには、ユイスと同じ刻印が水に透けて見えていた。
今、彼の表情は伏せられていて見えない。ずっと揺らめく水面を見つめている。
ぱしゃ、と、そこへ唐突に片手が下ろされた。水が跳ね上がって、波とは違う揺らめきを生む。
「アルスか……」
抑揚の薄い声。
振り返らずにレイスが呼び掛けたのが、いつの間にか現れたあの目を覆った子供。岸辺に立っていたその彼が、レイスのいる波際に近寄る。
「お前が来てるってことは、ヴァシル様も来てるのか……」
アルスが無言で首を縦に振った。
まだ彼には視線を向けずに、レイスは再び海面を見つめて、そこに映った歪んだ自分の姿に乾いた笑みをこぼす。
それからようやく岸辺に向かう。
「今夜は館の方へ戻るようにとの仰せです。大事なお客様をお呼び致しますので……」
海から上がって、アルスから代えの衣服を渡されながら告げられた言葉。
「客……?」
その珍しい響きにレイスは眉を寄せた。滅多なことで、あの人は自ら客に会うような事はしない。
訝るレイスに対し、アルスはレイスを正面に見上げて平然と告げる。
「ヴァシル様に直接謁見を申し出てきたルオード=ゴエックという商人です。先程、あなたに始末してもらったエドリック=オーバーとはライバル関係にあります」
すでに慣れてしまった、その幼い姿には似合わないアルスの事務的な説明。それだけで、なんとなく主の意図が分かった気がした。一気に気が冷めてくる。それ以上聞いても意味はない。きっと虫酸が走るだけ。
ふい、とアルスの説明の途中でレイスは視線を外した。アルスが僅かに肩をすくめる。
「では、もう一人のお客人を紹介しましょう」
もう一人と言われて、レイスが今度はなんだとアルスを睨んだ。そのレイスの表情を見たように、アルスがその小さな体を脇にずらす。
「あちらにいらっしゃいます」
と、示すのが堤防の上。つられてその方向を見て、レイスはその場にいた人物に目を疑った。堤防の上で月明りに照らされ、立ち尽くす自分と同じ姿。全く自分と同じ顔をして、こちらを見つめ返してくる。呆然と、信じられないと言ったように。それから涙をこぼして口元を押さえて、右足を引きずりながら堤防を掛け降りてくる。
なんで。そんな一語だけが頭の中を巡っていた。
「レイ!!」
転びそうになりながら彼が走って自分に飛び付く。飛び付かれて、レイスはたたらを踏んでのけ反った。ぎゅっときつく抱き締められる。体から伝わるその暖かみは本物。
彼も同じくそれを感じている。
「レイだ……本当にレイだ……。わかる? 僕だよ、ユイスだよ?」
その淡い緑色の瞳に涙をいっぱいためて、歓喜に震える彼がすぐ目の前。
分からないはずがない。七年前、離れ離れになってしまってから、ずっと忘れることはなかった。自分の片割れ。
「ユ、イ……」
そうだ、と彼が繰り返し首を縦に振る。またきつく抱き締められる。
頭は真っ白になって、どうすればいいのか分からなくて、アルスに視線を向けた。
アルスはユイスが客だと言っていた。それは一体どういう事。
「ユイスさんをお連れになっていたメリア様が、ヴァシル様のもう一人のお客様なのです。すでにメリア様は館の方へお越しになっていますので、私がヴァシル様よりあなた方を館へお連れするようにと、言付かってまいりました」
アルスのその台詞にユイスも彼を振り返って目を瞬かせた。どういうことだとアルスに問う。
「ちょうどあなた方が歩いていらっしゃるところに主が通り掛かり、レイスと瓜二つのあなたに気付いたのです。ですがあなたはレイスを追ってすでにいってしまった後でしたので、わたしがあなたと彼を追い、主が先にメリア様だけ屋敷にお連れさせていただきました。どうぞあなたも館へ起こし下さい。近くに馬車を用意しておりますので、詳しい話はその中でいたしましょう」
アルスがユイスを誘い、土手の上へと向かおうとする。
ユイスはその彼に手を引かれながら、今だ事態が飲み込めずに戸惑って、レイスを振り返った。
それに気付いてアルスもレイスに視線を投げ掛ける。
「レイ兄さんもいいですね?」
レイスに確認を取るアルスの言葉。二つの視線が突き刺さるようで、微かにレイスは眼を掘らした。誰かに心臓を鷲掴みにされている気分。喉もつぶれそうな程息苦しい。
そしてうなずく。そうするより他に自分に選択権がないことは分かり切っていた。
自分にはどうしようもできない。ただ、いつでもその命令に従うだけ。
促されるまま、レイスは馬車に向かって歩き出す。その闇の中で一つ輝く真っ白な月に背を向けながら。
馬車はゆっくりと、海岸沿いの道を進んでいた。
向かいの席に座るレイスは、馬車に乗り込んでそう経たないうちから、ずっと顔を伏せて黙り込んでしまっている。話したいことはたくさんあるのに、何か話しかけようとしてもああとかうんとかそんな気のない返事ばかりが返ってきて、結局未だ何も話せていない。
「レイ兄さんも照れているんですよ、きっと」
レイスの隣に座るアルスが、見兼ねて和ませようと声をかけてくれる。彼はまだ十歳と言う幼い中で、その上目が見えないのに、雰囲気を察して気を使ってくれていた。そんなアルスに気を使わせるのも悪くて、ぎこちなくではあるがユイスは笑った。
だがやはりぎこちなかったようで、ユイスを見て彼は肩をすくめる。
「まだ到着まで時間もありますし、話でもしましょうか。レイ兄さんのことは……」
ちらりとアルスが横を向くと、余計なことは言うなよとばかりにレイスがにらみ付けた。
「だ、そうですので他のことにしましょうか。館に着いたら本人から聞いて下さい」
くすくすと笑いながらアルスは肩をすくめる。まるで一見兄弟のような光景。
「何か聞きたいことはありますか?」
そこへそう尋ねられて、一瞬ユイスは返答に窮した。二人のやり取りに見入っていて、名にも考えていなくて。
ただ聞きたいことはたくさんあった。レイスのことも、そうでないものも。中でも特に尋ねたいことがあって、それだけはちょうどいい機会と、尋ねてみようとして居住まいを正した。
「じゃああの……ヴァシルさんって、一体どういう方なんですか……?」
レイスとアルスの主、ヴァシル=クロフォード。アルスからヴァシルについてこのセルモーザを拠点にしている商人だと説明してもらってはいた。その館が街の中心部ではなく、町外れの崖の上にあり、先程三人がいた場所からだと馬車で半刻ほどかかるということも。そして、それらの話とこの馬車の仕立ての良さを併せて考えると、ヴァシルと言う人物が単なる一介の商人ではないことは容易に想像はつく。むしろ下手な貴族よりもよほどその財力は高いのだろうとも思えた。