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灰色の双翼

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1−2


 
 
 レイスのあの夢の、その本当の意味を確かめたくて、ユイスはまだ走り続けていた。
 道は、高い壁に囲まれ曲がりくねった路地裏の道。月の光りも届かずに足元は暗く、その上舗装されていないためにすぐに足を取られそうになる。
 追っていたはずの姿も、複雑な道と夜の闇に遮られてしまって、すでにどこにも見えない。もうあきらめたほうがいいということは、本人もとっくに分かっていた。だがたとえそれがほんの小さなの希望でも、レイスのたった一つの手掛かり。
 あの曲がり角を過ぎれば今度こそ何かがある。何度もそう祈るような気持ちで走り過ぎてきた。そしてまた曲がり角。急いで、そのきつい角を曲がろうとした。その矢先。
 急にガクンと足が崩れた。あ、と思う間もなく、むき出しの土の上に倒れ込む。ずざっと土に左手をついた拍子に、手のひらが擦れて擦り切れた。
 じわ、と血が滲む。じんじんと鈍い痛み。
 その痛みをこらえながら、足元を見た。ちょうど今曲がった角のところに、大きな穴が開いていた。それに足をとられたらしい。気付かなかった自分に呆れながら、ユイスは起き上がろうとして足に力を入れた。
「痛っ……」
 ズキリと、途端に痛みが走る。咄嗟に押さえたのが、穴につまずいた右の足首。転んだ拍子に捻っていたのか、ズキズキと痛む。左の手のひらよりも重い痛み。
 はあ、とユイスは大きな溜め息をついた。痛みに立ち上がるのをあきらめて、仕方なく近くの壁に背を預ける。良く見れば服も皆土だらけ。こんな状態を見たら、またメリアに怒られそう。いや、呆れられるかも。
「本当、僕っていっつもどんくさいんだよね……」
 自分で苦笑しておいて、余計に情けなくなってまた溜め息。
 手足を投げ出して、空を見上げる。白い建物の合間から見える、狭くて真っ黒な夜空。月も星も何も見えない。そこの見えない、ただ黒いだけの、空。
「レイ……」
 呼び掛けても返事はない。真っ暗な闇があるだけ。
 その闇に向かって、片手を伸ばした。
「どこにいるんだよ……」
 届かないセルモーザの夜空。さっきのは本当にレイスだったのだろうか。本当に、レイスはここにいるのだろうか。
 ずっと見つめていると、段々闇がこっちに広がって、迫ってくるような感じに襲われる。まるで闇に呑まれるような。
 そこへひゅう、と冷たい風が吹いてユイスの柔らかな金髪をさらった。
「寒いな……」
 微かに、ユイスは身を震わせた。
 この季節、昼間は暖かくてもセルモーザの夜は冷える。このままいたら凍えてしまうかもしれない。
 そう感じて、仕方ないかと頭を振って立ち上がった。足はまだ痛かったけれど、彼を見失ってしまったからにはいつまでもこんな所にいるわけにはいかない。メリアにも何も言わずに来てしまったから、きっと彼女も心配しているだろう。早く戻らないと。
 だが、立ち上がってユイスは辺りを見回して、はたと止まった。
「あ、れ……?」
 辺りはどこを見てもみんな同じ白い壁。もう一度ぐるりと見回しても、同じ。それらを見て、段々とユイスは冷や汗が出てくるのを感じた。
「ここ、どこ……?」
 夢中で走ってきたためにここがどこなのか、どっちへいけば大通りへ出られるのか、それどころか自分がどっちからきたのかもすでに分からなくなっている。
「どう、しよう……」
 途方に暮れてその場にユイスは立ち尽くした。今更ながら、何も考えずに走り出してしまったことが後悔された。
 またそこへひゅるり、と風が吹き抜ける。
 とにかくこんな所でメリアが探しにくるのを待っているわけにも行かない。自分で動かなければ。そう決意して、もう一度彼は辺りを見回した。
 道は右と左。
「とりあえず……こっち、かな……?」
 適当にこういう時は左側へ行ってみようと、ユイスは無闇に歩き出す。もしかしたらどうにかなるかも知れないと、そんな安易な考えで。
 そのちょうど一歩踏み出したその時。
「逃げた奴隷というのはこっちか!?」
「ガルグの回し者かもしれん! 見つけ次第即刻捕らえろ!」
 突然辺りに響いた叫び声。同時に物々しい大勢の足音が聞こえ出す。何が起こったのか、一瞬ユイスは理解できない。
 が、自分の今の状況を改めて思い出して、途端に青ざめた。自分は人から見れば『メリアと言う主から逃げた奴隷』なのだ。だとすれば彼らが言う逃げた奴隷というのはおそらく自分の事。そんなものに関わるわけにはいかないと、ユイスは足を引きずりながら走り出した。
 遠いような近いような場所から、カシャカシャという重い装備をしているらしい音が幾つも聞こえてくる。そういえば、先程西で何か事件でも起きていたようだったが、もしかしてそれに関係する警備隊の追っ手だろうか。それで同じ時に逃げ出した自分を探しているのだろうか。そういう考えに及んで、更にユイスは痛む足に鞭を打った。
 警備隊になんて見つかるわけにはいかなかった。下手をすればこっちが何もしていなくても切り捨てられることだってある。特にこういった大きな街の警備隊はそういう人間が多い。
 三年前だってそうだった。あの時も主の屋敷から逃げ出して追われて、殺されかけていた所をメリアにかくまってもらった。
 今、メリアはここにいない。ここは自分でどうにかしなければならない。
 ズキズキと足が痛む。
 警備隊の兵士たちの足音はすぐ側まで迫ってくる。ガルグがどうの、赤い悪魔がどうのという話し声も近い。ユイスにはそれが一体何のことなのかはさっぱり分からなかったけれど、今回の事件か何かに関わりがあるのだろう。
 でもそんな事は今はどうだっていい。自分には関係のないこと。今はただ必死で走るだけ。
 そうして走って、逃げることだけ考えてユイスは細い小路に飛び込んだ。そこで唐突に足は止まった。いきなり目の前に現れた白い壁。そこは逃げ道のない袋小路。
 後悔してももう遅かった。
「こっちだ! 追い詰めたぞ」
 到底巻けるはずもなかった警備隊の足音がすぐ後ろ。目の前の壁は普通の人間なら足場があればこえられない高さではなかったけれど、肝心のその足場はどこにも見当たらない。どのみち、足を引きずっているようなユイスでは到底無理。あたりを見回しても隠れられそうな場所も何もない。
 もうだめだ。
 そうあきらめかけたとき。
「こっちだよ」
「え? うわ……っ!」
 突然引かれた腕に驚く間にも、ユイスは土の上に転んで口を塞がれる。ごとりと何かが重たく閉じられる音がする。
 まずいと、本能的に口を塞いだその手を振りほどこうとして、逆にユイスはその手の小ささに驚いた。
「しっ、静かに」
 そう制する声も幼い。驚くままに、ユイスは黙って声の主に従った。
 いくらもしないうちに壁の向こうに大勢の足音が向ってくる。
 それを聞いて、ようやくユイスはここがあの壁の向こう側なのだと言う事に気が付いた。壁の一部がくりぬかれていて、そこから引っ張られて倒れ込んだ。さっきの引きずったような音はその穴をふさいだ音。
「おい、誰もいないじゃないか!」
 苛々と誰かが声を荒立てて叫ぶ。
 口をふさがれているにもかかわらず、無意識に息を殺した。
「おかしいな……たしかこっちへ……」
作品名:灰色の双翼 作家名:日々夜