灰色の双翼
1.5−4
じっと、レイスは闇を見つめていた。
とっくに夜半は過ぎた時分。だがこの夜の間じゅう、レイスは一睡もせずにただ闇の中に身を置いていた。
見つめるのは、昼間ユイスが立っていた場所。泣きながら、レイスに謝罪の言葉を繰り返した場所。僅かに、ユイスの血の跡が残る場所。
そこに、うっすらとした彼の幻影がいた。もうヴァシルの作った幻影は見えないはずなのに、なぜか再びレイスの前にそれは現れていた。
彼は昼間と同じように、しきりに涙をこぼしながらレイスに謝罪の言葉を繰り返す。ぽたぽたと頬を伝って落ちる涙は、幻影だとわかりきっているのに足元の絨毯に染み込んでいくようだ。まるで本物のユイスがそこにいるかのように。
もしかしたら隣の部屋で、本当にユイスも泣いているのかもしれない。昼間、レイスはユイスを拒絶したから。昔から泣き虫だったユイスは、多分泣いているのだろう。それが幻にも反映しているのかもしれない。
「お前に泣いてほしいわけじゃないんだけどな……」
涙をぬぐおうと手を差し伸べたが、幻影は透き通っていて触れることはできなかった。微かに夜の冷ややかな空気を掴んだだけで、所在のなくなった手を、仕方なくレイスは戻した。
「でも、俺は生きていたくなんてなかったんだ……」
記憶にあるのは、いつも目の覚める薄暗い部屋だった。
ガルグの長であるヴァシルが、レイスに与えた決して終わることのない部屋。死んだ人間を蘇生させるための部屋。
そこで、レイスは何度死のうと生き返らされてきた。決して、死という安楽を手に入れることはなかった。
今も、そのときの状況と何ら変りはない。ただ、ガルグの手から逃れられたというだけで。
ふと、ベッドの脇に立てかけられた二本のブレードが目に入る。刀に持ち手をつけたそれは、レイスがこれまで愛用してきたものと同じだった。ユイスが去り際に置いていったものだ。ザフォルからの預かり物だと言っていた。
気が付くと、レイスはそれに手を伸ばしていた。鞘を外すと、刀身が闇の中でもきらりと光った。
「そんなに死にたいかい?」
その独特の飄々とした口調に、苛立ちを覚えながらレイスは顔を上げた。
鍵はすべてロックしたはずなのに、どうやって入ってきたのか、扉の前にザフォルの姿。
「何の用だ……」
手にしていたブレードをザフォルへと突きつける。その直後、ザフォルの姿がふっと消えた。
「物騒なものなんて突きつけてくれるなよ」
はっとする間もなく、手からブレードが奪われる。消えたザフォルが一瞬でレイスの背後を奪っていた。
逆に背中に何かが押し付けられる。体は、硬直して動かなくなった。
二本のブレードは、淡い光に包まれてザフォルとレイスの上方に浮いている。今の体勢からは届かない。
打つ手なしだった。
「さて、どうする? お姫様」
ザフォルが耳元でささやいた。耳障りな含み笑い。
「どうにでも、しろ……」
自棄を起こしたかのように、レイスは一切の選択を捨てた。
思いがけない返答だったのか、僅かにザフォルが目を細めた。
す、と背にあてがわれていたものが引かれる。
「そういや、さっきの質問の答えがまだだったな。そんなに死にたいか?」
ザフォルがレイスの正面に回り、レイスを見下ろす。
ザフォルに見下ろされたレイスは、逆にザフォルを睨みあげた。
「その前に、俺の質問を先に答えたらどうだ」
睨み付けられて、ザフォルが肩をすくめる。
「俺が何者か? だったか?」
「貴様がガルグに関わってるって言うことは分かってる。だが、ここにはガルグの気配は一切ない。一体、貴様は何ものだ。何を企んでやがる」
微かに、ザフォルの口の端に嘲るような笑みが上った。
「そんなこと、お前さんが聞いてどうするってわけでもないだろう? 殺人人形(キリングドール)の赤い悪魔(レイ・ディーヴァ)くん」
かっと、血が上った。操り人形は命令にだけ従っていればいい。そう、あのヴァシルと同じことをザフォルは言ったのだ。
「おっと、本気にするなよ、冗談だよ冗談」
また突っかかりそうになるレイスの姿を見て、慌ててザフォルが両手を交差させる。
「まあ、確かにガルグとの関わりはないわけじゃねぇがな。けど、関わりがあったのはずいぶん昔の話だ。今は正直、ガルグとの関わりは一切ない。一介の魔法使いさ」
言って、懐から煙草を取り出した。火がつけられた煙草から煙が立ち昇り、それが僅かに目に染みた。
「だが、何を企んでるかってのは、答えられねぇ。そのうち分かるとは思うがな。あと五年もすりゃ、嫌でもな」
ふう、とザフォルは気だるげにその煙を吐き出す。見つめる先がどことも知れない彼方。それ以上は、ザフォルは何も答えはしなかった。
「さて、俺は答えたがお前さんはどうなんだい?」
まだ死にたいかと、ザフォルが尋ねる。
レイスの問いに対しての答えはほとんど答えになってはいなかった。到底満足できる返答ではない。だが、どれほど突いても、目の前の男は、あとは何も話はしないだろう。
あきらめて、レイスはその問いの返答を口にした。
「俺は、生きていたくなんてない……」
言ってしまって、目を閉じた。
アルスによって消されたとき、本当のところ安堵していた。やっと、終わりがくるのだと、歓喜すらした。
なのに、ユイスによって生き返らされたことを知って、それは絶望に変った。いや、絶望に慣れてしまって、むしろ何も感じなかった。ただ、またか、という思いだけが胸を占めていたと思う。
だから、今も死にたいかと聞かれれば、応としか答えられない。
「そうかい、でも、それは本当にお前さんの本音か?」
にやりと、ザフォルがレイスを見て口の両端を吊り上げた。
なぜ、そんなことを言うのだと声に出そうとして、できなかった。不意に声が出なくなった。なぜか。
「まあいいさ。それよりも……」
ザフォルがレイスに手をかざす。
途端に視界が撓んだ。
「な……」
何をしたのだと声をあげようとして、それも言葉にならない。体は徐々に硬直していき、終いには指の先すら動かせなくなっていく。感覚がひどく遠く、体と意識がまるで別物にでもなっているかのよう。
「実を言うとな、お前さんの魂はまだ完全に定着しきってるわけじゃねぇから、こうして肉体から魂を切り離すこともまだできないわけじゃないんだよ」
利かない視界の向こう側で、ザフォルがレイスに告げる。
おまえが望めば、このまま本当の死を与えてやれないこともないと。
それはレイスにとっては、とても甘美な誘惑だった。ただ同時に、そこにユイスの姿が浮かんだ。
「まあ、少しだけ夢を見てから決めるといいさ。幻じゃない『夢』をな」
そうささやくようなザフォルの言葉の直後、すべての感覚は閉ざされ、現実と切り離されていった。
ザフォルは完全にレイスの意思が切り離されたのを確かめて、彼の前にかざしていた手を下ろした。軽くふう、と肩の力を抜く。
今ここにいるレイスは意思のない人形だ。彼の意識は深い眠りの奥にある。そこでザフォルが与えた夢を見ていることだろう。心の最奥にしまいこまれたレイスの本心に触れながら。