灰色の双翼
そう考えれば、彼が生きているという根拠なんて、どこにも何もありはしない。
でも。
きつくユイスは自分の手を握りこんだ。
「だがまあ、確かにコレは『レイス』になるかもしれないな」
突然、ザフォルが言った。にやりと、何か企んでいそうな顔をして。
「どういうこと…」
ザフォルの言った意味がわからなくて、ユイスは聞き返していた。今さっき、ザフォル自身が言ったはずだった。水槽の中の肉体は、レイスではないと。彼は死んだのだと。なのに、ソレは『レイス』になり得ると言う。
わけがわからない。
そんな混乱するユイスと水槽から視線を外して、ザフォルはすぐ傍らに置いてあった小さな鳥かごに手をかける。黒い布を被せられていたその向こうから、仄かな光が浮かんでいた。
「おまえさん、こいつの中に何が入っているか見当がつくかい?」
突然そんなことを聞かれてとっさに首を振った。初め、そこに鳥かごがあることにも気づかなかったユイスだった。それが何かなんてわかるはずもない。
と、そのときふとその光が弱まったように見えた。仄かな光がほんの少し萎んでいるような。
「どうやら柄にもなくショック受けてるみたいだな」
クツクツと喉を震わせて、ザフォルが笑いながら被せられた黒い布を捲り上げる
取り去られた布の向こうに現れたのは、廊下に灯されていた光と似たような球だった。淡い金色の光。いやそれが弱まって淡い緑の光になり、そしてまた金に戻る。
何だろう。廊下にあった光とはどこか違う。なぜかその光は冷たく、どこか寂しい。でもとても懐かしい思いに駆られる。
ぽたりと、なぜだか涙が頬を伝い落ちていった。
「あれ、なんで……」
突然流れ落ちた涙。とめどなくそれは流れてきて、止まらない。ひどく胸が苦しくて、切ない。
「やっぱ何もしなくても感じるものがあるんだな、お前さんたちの間には」
ほらよ、とザフォルがその籠をユイスの前に差し出した。
促されるままに籠を受け取り、そしてきつく抱きしめる。そうすると光が急に強く輝きだして、同時にユイスの涙も止まった。
それにしても、なぜいきなりこんなことになったのだろう。急に泣きたくなって、あの光を近くに感じたら今度はすぐに止まってしまった。
ザフォルを見上げると、彼はまたにっと笑う。
「こいつは人間の魂なんだ。特におまえさんが一番よく知ってる奴だぜ?」
言って、片目を軽く瞑ってみせる。
「それって、まさか……!」
信じられなくて、腕の中の籠とザフォルとを見比べた。
「よく見てみればわかるさ。今のおまえさんなら見えるはずだからな」
その言葉と同時に、籠の中の光を食い入るようにユイスは見つめる。
確かに改めてよく見ると、光はただの光ではなかった。目を凝らして見つめると分かる。光の中にはほんの小指ほどの大きさの、小さな人の形をしたものが身を縮めて眠っていた。
「レイ……」
呟くと彼が目を開く。うっすらと覗いた、ユイスと同じ淡い緑の瞳。光がその瞳の色を映して、金から緑に変わった。小さな小さなレイスの姿。
気が付くと、頬にまた涙がこぼれていた。
しかしすぐにもまた彼の目は閉ざされてしまって、光はまた金色に戻っていく。レイスにはユイスの姿が見えていないのか、それ以上は何の反応もなかった。
「それは魂にすぎないからな。そいつには実体のある俺たちのことも見えちゃいない。まあ、おまえさんに関することなら感じることはできるみたいだが」
それでも、感じてくれているならそれだけで十分だ。
ぎゅっと、ユイスはまた籠を抱いた。もう彼を手放したくはない。たとえこのままでも、レイスと共にいたい。そう思って。
「言っとくが、そいつをずっとそのままにしておくことはできないぜ? 魂だからな。今は魔法で無理やり現世に留めてはいるが、それも限界がある。いずれはそいつも消えちまうだろう」
「そんな……」
ザフォルの言葉は、微かなユイスの期待を無情にも打ち砕いた。魂だけでも傍にいてくれるならいいと思っていたのに、それは無理なのだと。
確かにそんな都合のいい話があるわけがないのかもしれない。死者は天に召される。それが自然の道理なのだ。きっとレイスもそうやって最後には自分の前から消えてしまう。
でも、そんなのは嫌だ。
またきつく、籠を抱いた。
「レイスを蘇らせたくはないか?」
その時、まるでユイスの心を読んだようにザフォルが言った。
「俺ならできないことじゃない。まあ、今のそいつには体がないから完全に元のとおりとはいかんが、おまえさんの協力に寄っちゃ限りなく元のレイスに近い状態になら持っていける。あれを使えばな」
指し示したのが、水槽の中のレイスそっくりの体だった。
「勝手なことして悪いとは思ったが、あれはおまえさんの体の一部から作ったコピーだ。あれとレイスの魂を組み合わせれば、奴は蘇る」
ぞくりと全身が総毛立つ感覚。
「もちろんただでというわけにはいかねぇ。それなりの条件ってもんがいるがね」
ザフォルの言葉が、まるで悪魔の囁きのようだった。彼に頼めばレイスが蘇る。けれどなにか、その代償にとてつもないことが起きるのではないかと。そんな恐れ。
「さあ、どうする?」
決して強い強制ではない。なのに、返答をよこせと迫ってくるザフォルに、また圧迫される。
「僕は……」
レイスを蘇らせたくないなんて言ったら、嘘になる。これまで、レイスだけが自分の存在意義だった。レイスが無事でいてくれるなら、自分もがんばれる。なんにだって耐えられる。ずっとそうやって生きてきた。レイスが、自分の希望だった。
今、レイスは自分の前にいない。あるのはもうすぐ消えてしまうかもしれない彼の魂。もしそれさえもなくなってしまったら、きっと自分はもう生きられない。片翼をもがれた鳥がもう二度と空を飛ぶことができないように。
けれど。
「そうだ、条件。条件は何なんですか? それを聞かなきゃ決めるも何も……」
言いかけて、ユイスは口をつぐんだ。条件を聞けばそのまますべてを承知しなければならなくなるかもしれないと危ぶんだからだ。
ザフォルがまたおもしろそうにユイスを見て笑っている。
「条件ね、いいぜ。別に聞いたからどうなるってわけでもないしな。まあ、とりあえずはおまえさんにも悪くない条件だってことは言っておこうか」
それでも聞くかい?と聞かれてユイスはザフォルの言うがまま、うなずいていた。