灰色の双翼
1−1
カツンと、小さく足音が響いた。段々とそれがこちらへ近付き、大きくなっていく。一定のリズムで刻まれる規則正しい足音。その足の運びから、大人の男のものであると知れる。
少年はその足音の大きさを確かめながら、ゆっくりと目を開けた。
目の前に広がるのは宵の口の薄暗い空間。部屋を照らす明りは、扉の正面にあたる窓から薄明るい月の光が差し込んでいるだけ。他に光と呼べるものは何もなく、部屋の隅は常人にははっきりとは見えない。
ただ、ほどよく広いその部屋の壁際には、様々な専門書がこの部屋の主の性質を示すように整然と並び、真ん中にはきっちりと整えられて塵一つない、重厚な事務机が窓を背負う形で据えられていることは、彼には分かっていた。
カツンと、足音がさらに近付く。程無くこの部屋に主が戻ってきて、目の前の席に座るだろう。一層少年は、月明りの届かない部屋の隅で息を潜めた。
足音が部屋の前でぴたりと止まる。ぎ、と微かに扉が軋んで開けられる。入ってくるのが、白髪頭の堅物そうな印象の男。気配を絶った少年の存在には気付かずに、机の前のどっしりとした椅子に腰を下ろした。それがいつもの癖であるのか、葉巻の煙草を口にくわえる。ジ、と煙草に火が燃え移る音がして、薄く紫煙が立ち上ぼる。男がゆっくりとその煙を吐きだす。
一歩、少年は足を踏み出した。
頭から目深にかぶっていた黒ローブをばさりと脱ぎ捨てる。
「あんたが、エドリック=オーバーだな?」
「だ、誰だ!?」
不意の声に男が顔色を変えて辺りを見回した。それでもさすが大商人というだけあって不用意に取り乱したりはしない。すぐに男は部屋の隅にレイスの姿を見つける。窓のすぐ脇の暗闇。今まで影に隠れて見えなかった少年の姿が、今は月の明りに照らし出され、その顔を男にさらけ出していた。
金色の長い髪。女のように整った容貌。成長途上にあるのだろう、未だ小柄な少年の細い手足。それらの姿に、男が拍子抜けしたように体の力を抜いたのが見て取れた。明らかに男は少年に油断し、見下していた。
「貴様、一体どこから入り込んだ。どこの回し者だ?答えろ。そうすれば警備のものは呼ばずに、貴様を見逃してやってもいい」
優越に浸って見下す男に対し、少年はただ平然とそれを見上げる。その態度に、さすがに男は眉をひそめた。
少年は何も答えない。少しの間、その空間に静寂が訪れる。
「ガルグ……」
やっと少年が口を開き、紡いだのがその一言。それが男の顔から一瞬で色を失わせた。
「ガルグの……赤い悪魔」
優越に浸っていたはずの男がその名を聞いただけで恐れおののく。体格を見れば明らかに男の方が有利だと言うのに男はがたがたと震え、二歩、三歩と後退る。
「ま、待ってくれ! 頼む、見逃してくれ! か、金なら幾らでもやる! だ、だから……!」
男は額に脂汗を浮かべながら、不様に男は命乞いをした。しかし少年はそれへ、いつの間にか手にしていた刃を無情にも突き付ける。
ひっ、と掠れてうわずった男の悲鳴。
少年の冷たい瞳が、真っ直ぐ男を見上げる。
突き付けられた鋭い刃が、かちりと返る。
「悪いけど、死んでくれ」
「ひ、や、やめ……!」
不様な男の最後の命乞いの言葉は、途中でとぎれた。
少年の両腕が一閃する。
目が見開かれたまま、あっけなく飛ぶ男の首。
勢い良く吹き上げる、真っ赤な血の噴水。
その血に塗れ、少年の長い髪が赤く染まる。
狂気をにじませて、ゆっくりと唇の両端がつり上げられた。
男の首は緩やかに弧を描き落ちていく。
真っ赤に染まった空間にそれはごとりと落ちて、一回だけ跳ねて絨毯の上を転がった。
首と放された胴体がぐらりと傾ぎ、前のめりにゆっくりと倒れ伏す。
柔らかな絨毯に吸収されて物音はしない。
しんと、また静寂が訪れる。
少年は顔を伏せ、血に濡れて重くなった髪を無造作に掻き揚げた。
すでにその表情からは先程の狂気じみた色は感じられない。表情もなく、男の体から視線を外す。
ぽたぽたと、手にした二本の刃から血が床滴りに落ちて、絨毯に染みた他の血と混ざりあった。
ふと、息をつくようにこぼれるのが自嘲するような微苦笑。
思えばこの七年間、見てきたものはこんな血に染まった光景ばかり。もう、それ以外の光景なんて忘れてしまった。
ただ一つだけ、いつも必ずこの血の光景の次にくるものがある。
ぼんやりと部屋の隅に現れる幻影。
金色の柔らかな髪。小さな体。淡い緑の瞳を細めてその子供は笑みを浮かべる。まだ純真無垢な、汚れを知らない子供の笑みを。
そこへもう一つの幻影が現れて刃を突き付けた。
自分と同じ姿の、幻の自分。
機械的な動作で子供に近付き、さっきの男と同じ様にその細い首を飛ばす。
幼い子供の首が、まだほほ笑みを浮かべたままのその首が、ころんと自分の足元に転がってきて、自分を見上げる。
それはかつての自分と同じ顔で。
『どうして僕を殺すの…? レイ……』
首がこちらを見て笑った。
「や……やめろぉっ!!」
パン、と乾いた音と共にすべての幻影ははじけ飛ぶ。
ぜいぜいと、彼は荒い呼吸を繰り返す。
これは幻影。現実の事ではない。彼は、ここには居ない。
「ユイ……」
微かな声でその名を呼んだ。返事はない。
昔は何度もその名を呼んで流した涙も、今はもう出てはこない。いつの間にか枯れ尽くして、出てくるのはただ乾いた笑いだけになった。
「俺は……お前との約束は守れないよ……」
決して離れはしないと、共に村に帰ろうと誓ったあの日から、すでに、七年。今、ユイスはこの隣、レイスの隣には存在しない。
ただ、それだけが彼にとって救いだった。