灰色の双翼
アルスがヴァシルに跪き、そしてレイスに向き直る。
「待って……! アルス君やめて!」
ユイスが止めようとするのも、アルスにはまるで聞こえていないかのよう。
ゆっくりとした動作で右手にはめられた手袋が外される。
その下から少年のものとは思えない醜い魔物の手が現れる。
辺りの気温が一気に下がったように感じた。
言葉も出てこなくなる。
全身が見えない力に圧迫される。
ゆっくりとその手をレイスに向けた。
アルスがレイスを真っ直ぐ見据える。
一歩、レイスに近付く。
ヴァシルはただ悠然と、メリアを抱えながら二人の様子を見物しているだけ。
ユイスには何もできない。指を動かすことさえも封じられてしまって。
そしてその瞬間を見ることすら、ユイスにはできなかった。
気が付くと音もなく少年の手がレイスの胸を突き破っていた。
悲鳴すら出なかった。
レイスが目を見開き、アルスを凝視していた。
ゆっくりとアルスの手が引き抜かれる。
血も一滴も流れない。
手の引き抜かれた所から、徐々にレイスの体が塵が飛ぶように消え始めていく。
「アルス……」
レイスがその名を呼び、手を伸ばす。けれどそれは届くことはなかった。彼に向かって見開かれた眼も、やがてゆっくりと閉じていく。
ゆっくりとその体が傾ぎ、どさりと絨毯の上にあお向けに倒れた。
アルスの口が微かに動き、声にならない言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい」と、彼が言ったようにユイスには思えた。
「よくやった、アルス。後は他の者に任せるとしよう」
満足そうにヴァシルがアルスの小さな体を抱き寄せる。
ヴァシルがす、とレイスに向けて手をかざした。すると倒れたレイスの回りに風が巻き起こり、レイスの体が消滅していく速度が加速する。
闇がヴァシルとアルスと、そしてメリアの三人を包み込んでいく。
もうレイスの体はほとんど形を残していない。
闇が消える。霧が晴れるように。
レイスの体も消える。塵が消し飛ぶように。
すべては終わってしまった。
終わってしまったのに、ユイスは動くことも出来ずに呆然とその光景を見つめていた。
レイスが消えてしまった。ただそれだけが頭の中を巡っていた。
気が付くと、どこか見知らぬ空間の中だった。辺りは真っ白で何も見えない。ただ、かたわらに立つ白衣を着た見知らぬ銀髪の男が、穏やかな笑みで自分を見下ろしている。
「お前の願いはなんだ?」
なんとなくどこかで聞いたような声は、とても穏やかだった。
その声に、心はすぐに導かれる。
答えはそう、一つだけ。
「レイと一緒に、村に帰ること……」
そう、レイと。
答えると、くしゃっと、男に髪をかき回された。
「わかった。その願い、俺がかなえてやろう。だから、お前はもうしばらくゆっくりと眠りな」
そっと目を男の温かい手が覆う。言葉通り穏やかな眠気が襲ってくる。
光を遮られた手の内側で、段々と瞼が重くなってきて、目を開けていられなくなって。
静かにユイスは目を閉じた。
ふと体から力が抜ける。
体が宙に浮くような感覚。
そうやって、ユイスは深い眠りに就いていった。
まるで永遠の眠りにでもつくかのように、穏やかに。
そこは温かな水の中。ぷかぷかと体がその中で浮いている。
ゆっくりと、自分は目を開いた。傍らに、自分と同じ姿をしたもう一人の自分が同じ様に丸まってその水の中で浮かんでいる。お互いの手をしっかりと握り合わせて。
ほっと、笑みが零れて、自分はもう一度目を閉じた。
やがて水の中に小さなひかりが差し込む。それは段々と大きく、明るくなる。
急激にそこへ向かって引っ張られていく感覚を覚えた。それでもしっかりと手は握り合わされ、離れない。
そして再び目を開ける。
そこは明るい光の差し込む、見たこともない程真っ白な部屋の中だった。