灰色の双翼
1−4
「今日は本当にありがとうございました、ヴァシル=クロフォード殿。いや、ヴァシル=ガルグ殿と申したほうがよいですかな」
月の明りも先程から厚い雲に覆われて消えている薄暗い闇の中に、そんなどら声が響いた。 丸々肥え太った男が、部屋に一つしかない淡いランプの灯にワインのグラスをかざす。その光の向こうには、表情もなくただ静かにグラスを傾けるヴァシルの姿。
「さすが裏の世界を支配していると言われるガルグだ。長である貴方がこのセルモーザに根を下ろしてくれていて本当によかったですよ。このところあの男のせいでこっちは商売上がったりでしてね。目の上のたんこぶが取れて清々しました」
はっはっはと上機嫌に男が笑い声を立てた。その口はヴァシルとガルグを褒めたたえ、止まろうとしない。ともすれば丸いだるまが大笑いしているようにすら見える滑稽な男。
ヴァシルが微かに男に向けて皮肉の笑みを向けることすら気付いてはいない馬鹿な男。
「そうそう、あの赤い悪魔(レイ・ディーヴァ)にも礼を言わなければなりませんな。ガルグ最強の暗殺者と呼ばれるだけあって、すばらしい手並みだ。噂では人の倍以上の背がある化け物だとか、男を誘惑する魔女だとかききますが、実際のところはどうなんです? 一度この目で拝んでみたいものですな」
その男の台詞に、ふとヴァシルの手がぴたりと止まった。その深い闇のような瞳がひたと男を見据える。
お、とつぶやいただけで男は言葉を止めた。いや、言葉を消されたと言ったほうが正しかった。
ヴァシルが口元をにやりとつり上げる。
「ルオード=ゴエック殿……。貴方は今、レイ・ディーヴァを見たいとおっしゃったか? それならばお見せしましょう。貴方がしきりに褒めたたえている私のレイ・ディーヴァを」
男が目を見開き、声のでない口をぱくぱくと金魚のように開閉させた。
ぱちんと、ヴァシルが指を鳴らす。
ぎ、と微かに軋んで扉は開けられた。その扉の向こうに立っていたのが、他でもないレイス。表情もなく、ただ無言で冷たい視線を男に向ける。
男はやはりぱくぱくと口を開閉させてレイスを指差し、繰り返しヴァシルと見比べた。
「悪魔というから、もっとおどろおどろしい者だとでも思っていらっしゃいましたか? あいにくうちのレイは、そのような下賤な悪魔ではない。おいで……」
猫か何かを呼ぶように手を差し延べられて、レイスがヴァシルの足元に機械の人形のような動作でひざまずく。差し延べられた指先はレイスの顎を捕らえ、しっかりとヴァシルの方を向かせた。その間にもう片方の手が、レイスの長い髪を束ねる紐を解きほどいて、その金髪に指を滑らせる。レイスはただされるがまま。従順なペットのように。
「悪魔と言っても、彼はとても愛らしい。そしてとても美しい。私の人形たちの中ではとくに気にいっているのですよ。ただ、今は少し物足りないかも知れないな。もう少し楽しませてあげれば彼はもっと美しくなる。そうだちょうどいい、貴方も彼の味を堪能してみますか?」
ヴァシルがそう、男に視線を流した。
男はその申出に声の出ないままかくかくと首を仕切りに立てに振った。自分がどぎまぎとだらしなく鼻の下を伸ばしていることにまるで気付いていない。それがまた、いかにも滑稽。
ヴァシルがレイスを促す。促されるまま立上がったレイスは、ゆっくりとした足取りで男に近付いた。男の目の前に立って、男のぶよぶよとした太い腕がレイスの細い体に伸びようとしてきて。
「さあ、レイス。たっぷりと味わわせてやるといい」
そのヴァシルの命令の直後。
ひゅんと、空を凪ぐ音と共に、何かが闇の中を飛んだ。
とたんに吹き上げる盛大な血の噴水。
手にした二本の刃が男の無駄な肉を切り刻む。
白い脂肪が辺りに飛び散る。
その一片が、闇の中をくるくると回りながら飛んでいく、男の首にべちゃりと張り付いた。
ぐらりと男の体が傾ぎ、血の海の中に倒れる。
体の脇には数刻前と同じようにごとりと首が落ちてきて止まった。
充血し、見開かれた目がレイスを見つめる。
その光景に、レイスが頭から足まで体全部を血に染めて、満足そうに口の端をつり上げた。
「いい子だ。やはりお前には血の赤が似合う」
血にまみれたレイスをヴァシルが抱き寄せ、扉の方を向かせた。顎をつかまれて、そこにある物を見るように強制される。
幻。ユイスの幼い幻。
何度も見てきたそれが、またそこに現れていた。もう見たくもないのに、決まって現れるそれ。
だが、次のヴァシルの言葉。
「どうだったかな。レイスはすばらしい人形だろう。ユイス君?」
ヴァシルが楽しそうに笑う。
幻のユイスがうっすらと闇に溶けていき、今のユイスの姿と重なる。幼かったその幻影が、今のユイスの姿を取っていく。
これは幻ではない。本物のユイス。
「なんで……」
本物の彼が扉にしがみつくように立って、体を震わせている。
「君が、どうして……こんな……」
ユイスの怯えるようなまなざしが、全身につき刺さった。
知られてしまった。一番知られたくなかった姿を、すべてユイスに。せめてこれだけは知られないようにしようと振る舞っていたのに。その努力もすべて無駄だった。
きっと初めからすべてヴァシルに仕組まれていたのだ。あの幻も、こうして何も彼も知らせることも。そしてずっと恐れていた、これから起こるだろう事も。
これで終りだ。何も彼も終わる。もう何をしても遅い。しょせん自分はヴァシルの人形。あの人には逆らえない。
ヴァシルがレイスの片腕を持ち上げる。刃を握ったままのそれを。
そしてそれは突き付けられる。立ち尽くすユイスに向かって。
ふわふわと浮かんでいる。
ゆらゆらと流されていく。
体はとても軽くて、意識はとても重たかった。
心地好くて、心地悪い。
そんな曖昧さ。
ゆらゆらと水に流され、揺れる。いや、違う。だれかが体を揺さぶっているのだ。
ああ、そうか。もうすぐ目覚めるんだ。多分ユイスがいつものように起こしてくれる。いつものように朝を迎える。
でも、まだ起きたくはない。まだ眠っていたい。この曖昧な空間で、ずっと揺られていたい……。
「だめです! 起きて下さい!」
ばん、と意識が突き上げられる。
これはユイスの声ではない。一体だれの声?
意識が浮上する。
ぱっと視界に暗闇が広がる。
跳ね起きて咄嗟に辺りを見回して、メリアは揺さぶり起こしたその犯人を知った。ベッドの傍らでほっと息をつくのが、ヴァシルの養子だというアルスだった。
「どうしたの? こんなおそくに……」
突然の事に、メリアは戸惑いを隠せなかった。
辺りはまだ真っ暗な闇に包まれた真夜中。こんな時間に一体何があったというのか。
眉を潜めるとそれを感じ取ったのか、アルスが大丈夫だと自分を気遣って微かに微笑むよう。だが、すぐにそれは子供がするような顔ではない、真剣な表情に変わってメリアを見据えた。
「お願いです、メリア様。何も聞かずに今すぐこの館から逃げて下さい」
まるですがりつくように切羽詰まった様子で訴えてくるアルスに、メリアは益々訝った。