灰色の双翼
「やだよ。レイも行こうよ! 行けるんだよ!? ヴァシルさんにお願いすればきっと許してくれる。メリアだってルクレア様だってついてくれてるんだ! 君が一言帰りたいって言ってさえくれれば……」
そう精一杯叫んでも、彼は困ったように薄く笑みを浮かべただけで、決して首を縦には振ろうとしなかった。
そこへ、コンコンと扉が控え目に叩かれる。すぐ後に、かちゃりとドアが開いて、ヴァシルが顔を覗かせる。
「まだ取り込み中だったかな?」
「いえ、ちょうど今終わりましたので」
まだ自分の話は終わっていない。
なのにレイスがまた表情を消して受け答えする。もう自分のことなんてほとんど気にしていない素振りで。
彼はもしかして、自分の事を嫌いなのだろうか。そんなよく考えれば有り得ないような不安が、ヴァシルたちが入ってくると共に、込み上げていた。
ヴァシルがメリアを伴って中に入ってくる。別室で二人で何かを話していたのか、伴われたメリアはことさら上機嫌だった。
ユイスも彼らを迎えようと立ち上がろうとして、それをヴァシルに止められる。
「無理はしないほうがいい」
そうユイスを気遣って、言葉を掛けてくれる。その言葉に甘えてそのままでいると、メリアがユイスの座っていた席の隣を勧められて、腰を下ろした。ヴァシルがその向かいに座る。レイスはユイスと向かい合う形でヴァシルの隣。アルスの姿がいつの間にか消えていたが、別に彼に関わりはないのだから、居ないことは不自然ではなかった。
「ところで、さっそくなんだがユイス君。レイスの件についてだが……」
突然声を掛けられてどきっと居住まいを正した。しかも先程まで話していた内容にいきなり触れられて、鼓動は早くなる。レイスからは拒否された。けれどヴァシルの許しさえ出れば、きっと彼も考えを改めてくれると思う。ただ、それまでの道程が大変だろうけれど。
だから、なるべく真っ直ぐヴァシルを見つめた。自分の意思を認めてもらうためにも。ここで負けたくはなかった。
ヴァシルがそれを見て微かにほほ笑む。
「実をいうと、すでにメリア殿とは話は付いているんだ。レイスはとても優秀でね、なるべくならば私は手放したくない。だが、レイスの意思も無視するわけにはいかないだろう。だから、私はレイスさえよければ、彼を君達に受け渡してもいいと考えている」
思わずユイスは身を乗り出した。先程レイスの言葉に落ち込んだばかりだっただけに、その申出は俄かには信じられなかった。
メリアとヴァシルの顔を見比べる。どちらもともにユイスに対して笑みを浮かべていた。難しいと思っていたのに、こうもあっさりと承知してくれるなんて。
「私もこんなに話がうまく行くなんて思ってもいなかったわ。でも、もともとヴァシルさんも奴隷の酷使には反対の立場の方で、いずれは彼を故郷に帰そうとも思っていて下さったんですって。それで、ユイのことも一緒にって探していたみたい」
嬉しそうに、メリアが言う。だから先程、メリアが上機嫌になっていたのだ。
「本当に……よろしいんですか……?」
「ああ、もちろん」
そうヴァシルがうなずくのを見て、レイスに視線を向けた。
これでレイスも承知してくれるはず。主の許可が出たのだ。承知しない理由など、どこにもない。
レイスもヴァシルの言葉に身を乗り出していた。信じられないとでも言うようなめでヴァシルを凝視している。ただ、そこにはどう見ても喜びの姿は見えなかった。むしろなぜそんな事を言うのだと、ヴァシルに疑いの念を抱いているようなまなざし。
「お前はどうしたい?」
ヴァシルはレイスのその視線など感じていないように笑顔でそう問い掛ける。ヴァシルの目がレイスの目を見据える。そのまなざしは優しいはずなのに、なぜか一瞬恐ろしくユイスには感じられた。
レイスの目が虚ろにさまよう。
何かが、おかしい。漠然とそんなことを思い始めたときだった。
「俺は……ヴァシル様の側を離れることはできません……。俺は貴方に一生の忠誠を誓いました。それを破ることはできません……」
極力感情を殺したレイスの台詞。両手を膝の上できつく握り締めたまま、他の物は何も見ない。答えは先程と同じなのに、ヴァシルを前にしての口調が先程と全く違う。
「私のことはかまわない。お前が好きな道を選べばいい」
ヴァシルはそう穏やかな口調で諭すように言い聞かせるが、レイスはただ強く首を横に振るばかり。まるで何かにおびえていることを必死で隠そうとしているかのように。
「レイ……?」
胸のどこかにざわめきを感じて、身を乗り出したときだった。
「レイス君がそう言うんじゃ、仕方ないわよね……」
耳に飛び込んできた言葉に、ユイスは自分の耳を疑った。
「メ、リア……」
傍らのメリアが発した言葉。彼女がここでそんな台詞を言うわけがなかった。
なぜって、彼女が初めに言ったのだ。レイスが承知しなくても無理矢理連れていけばいい。絶対に家族と一緒にいたいはずだって。それなのに。
「あきらめましょう、ユイ。レイス君に無理強いするわけにもいかないでしょう?」
メリアがどこか悲しそうに笑って言った。それはどんなに不利になってもあきらめないメリアが、決して見せることのない笑みだった。
やっぱり何かがおかしい。レイスもメリアも違う。二人とも本当のレイスとメリアじゃない。
胸のざわめきも大きくなっていく。
どうしてこんな事になったのか。どうして二人が変なのか。
その理由を確かめたくて、最後の綱とヴァシルに視線を向けた。
ヴァシルの瞳がユイスを見つめ返す。
胸がどくんと大きく脈打った。
闇が広がる感じ。
ふと、ヴァシルのまなざしがメリアに移って。
「まあ、メリア殿、そう結論を急がなくてもいいでしょう。今夜はもう遅いですし、ここはまた明日ゆっくりと話し合うということでいかがでしょうか。彼らももっと時間が必要でしょうし……」
「そう……ですね」
見つめられたメリアがヴァシルの提案に、顔を赤く染めてすぐに頷いた。
「では、お部屋へご案内致します。どうぞこちらへ」
ヴァシルがメリアの手を取り、席を立った。メリアは彼に魅入られ、ほかの何も見えていないかのように彼に従っていく。二人の姿が扉の向こうに消えていって。
「ユイ……?」
「え、あ……」
レイスが扉の前で不審な顔をしてこちらを見ていた。他の者はすでに席を立っているのに、自分だけ座ったまま。慌てて立ち上がろうとして途端に足は崩れた。ぺたんとソファーの上に逆戻り。
「大丈夫か? 足痛むのか?」
見兼ねたレイスがこちらに近付いてきて手を差し延べる。
ユイスはそれに縋るようにしてもう一度立ち上がった。まだ足はガクガクとおぼつかない。足が痛むのではない。膝が震えて止まらないのだ。ガクガクと、あのヴァシルの瞳に一瞬見つめられた時から。ひきずりこまれそうな程、強い力を持った瞳。深い闇。それがいまだ心を鷲掴みにして放さないような、そんな感覚をユイスは感じていた。