遼州戦記 播州愚連隊
だが、冥王星域における最後の撤退戦で一人敵陣に突入した彼は帰還することは無かった。三年後にデブリを回収していたリトアニアの業者が斎藤の愛機の97式を回収しその中から酸欠を恐れて拳銃自殺した斎藤の遺体を発見したことを安東は昨日のことのように思い出していた。
「大佐、車はどこに回しましょうか?」
田中と言う従卒。半年ばかり安東を担当しているこの青年下士官の気配りが最近うれしいと思うようになってきていた。ロビーには陸軍幹部との接見を求める格地区の防衛部隊の幹部連とそれに付き従ってきた士官達であふれていた。
「今日は隊には戻らない。タクシーを拾うから先に帰っていてくれ」
そんな安東の言葉に嫌な顔ひとつせず敬礼するとそのまま自動販売機に向かう田中。安東はそのまま階下へ向かうエレベータを待つことにした。ちらほらと振り返るとロビーでは相変わらず烏丸派と西園寺派の将校達が談笑を続けていた。部隊の幹部連中と言うことで明石から聞いている若手将校の小競り合いのような殺気だった雰囲気は無かったが、それぞれに相手を意識しながら小声で話し合っている。その内容がお互いの悪口に終始しているだろうと思うと安東の気持ちは憂鬱になった。
「大佐これを」
エレベータが開いて乗り込もうとした安東の背中に声をかけてくる田中。彼の手から缶コーヒーを手にして軽く笑みを浮かべると一人で安東はエレベータに乗り込んだ。扉が開くと静けさが狭い箱の中に広がる。そしてそこは思索に向いていると安東は思っていつもどおりこれから会う一国の皇帝のことを思い出した。
嵯峨は昔から気が付く男だった。
高等予科の学生時代から天才として知られた嵯峨。何をやっても完璧にこなし、それでいていつもふざけているような表情で教官達をからかい続けた食えない男と言うのが安東の嵯峨と言う男の感想だった。授業中は寝ていることもあるが多くは教室にいないことすら多かった。安東も何度か屋上で胡州の赤い空を見ながら居眠りをしている嵯峨を起こしに行ったものだった。それでいて常にテストとなると首席には常に嵯峨の名前があった。
『教科書一回読めば大体のことは分かるぞ』
得意げにそういう彼に安東がカンニングペーパーの作成を依頼したことは一度や二度では無かった。まじめな斎藤は別として安東と赤松の二人は多分嵯峨がいなければその後士官学校への入学は無理だったと正直思っていた。
そしてそんな予科を出ての進路を考え出したとき、斎藤が上町の芸者に入れ込んでいると言う話を聞いた。斎藤はともかく胡州の女学生には名前が通っていた。喧嘩と悪戯でワルと呼ばれていた安東達と付き合っているというのに斎藤の評判はどこでも悪いものではなかった。特に歌壇でもてはやされるようになった17のころからは男ばかりの高等予科の校門の前に斎藤を慕って来た近隣の女学校の生徒達を見るのは珍しいことではなかった。だがいつの間にか斎藤は悪友の嵯峨や赤松、そして自分達と一緒に嵯峨の兄、西園寺基義のコネで出入りが許された上町の料亭に入り浸るようになっていた。さすがに遊び人で知られていた外交官である西園寺基義も未成年に座敷遊びを教えることはしなかったが、そんな中でいつの間にか一人の売れっ子の芸者が斎藤に付きまとうようになっていた。
斎藤から彼女の身請けの話の相談を受けたあのころ。部屋住みの悲しさで金の工面が付かないことに気づいて泣きじゃくる斎藤をなだめたあの時の嵯峨の落ち着いた顔が思い出される。
「あのころは……あのころには戻れないんだな」
そう独り言を言ったときエレベータの扉が開いた。仏頂面の醍醐文隆とその取り巻きが見えた。
「どうも……」
何を言っていいのか分からないまま頭を下げた安東に醍醐の取り巻き達が下品な笑いを向けてきた。安東はそれを無視するとそのまま陸軍省の正門へと歩き始めた。
動乱群像録 19
安東は三味の音を聞きながら夜まだ早い料亭の庭を横目で見ながら廊下を歩いていた。こんな緊張した時期だというのに客は多い。だが安東はこれからの死を覚悟しているように遊びに夢中の士官達を責めるつもりは無かった。嵯峨達と飲んだ座敷は決まっている。足は案内の赤い振袖の少女に無意識についていった。
「こちらです」
少女はそう言うとふすまの開いたままの座敷の前に座った。いつものように少女に駄賃をやろうと勤務服のポケットに手を入れながら中を覗き込んだ安東の手が止まった。
「なんや……貞やんやないか」
驚いた表情の赤松忠満。海軍の制服に驚いて酒を少しばかりこぼした赤松の袖を懐から出した手ぬぐいで拭くのはかつて斎藤が愛した芸者トメ吉だった。
「トメさん。ええって……それより久しぶりやな……」
少女に駄賃をやってふすまを閉めさせて用意された膳の前に座る安東を驚いた様子で見つめている赤松。それを見ながら安東は一人三味線をいじっている嵯峨に目を向けた。
「そういうことだ……っとこれで良いんじゃないですかねトメさん」
昔と変わらず慣れた様子で三味線の音色を合わせる着流し姿の嵯峨。だがその隣にはここに来ることの無い客の膳がすえられていた。そしてその手前には予科時代の帽子を斜に被って身構えたような表情の斎藤一学の遺影が置かれていた。
「明子坊は元気ですか……」
安東は斎藤の落とし胤の少女の話題をその母トメ吉に尋ねた。
「ええ、先月は久しぶりに帰ってきてくれて……洋子さんとも仲良くしてくれているようで」
そう言うとすぐに安東の手にした杯にトメ吉は静かに酒を注いだ。
「新の字が珍しく差しで飲もうなんて言うからどんなことかと思えば……お互いそんな立場になったんだな」
赤松は静かに杯を干すとトメ吉にそれを差し出す。
「世の中変わるもんさ……まあ変わらないのはトメさんが相変わらず別嬪だってことくらいかな」
「まあ、お上手なんだから!新さんは」
嵯峨がまだ西園寺家の部屋住みの時代の西園寺新三郎だった時代。ここはまさに安東達の城だった。学校を休んでこの部屋に居座って酒を飲み続ける。そしてたまにこの店にツケを残している会社の重役のところに制服のまま尋ねて勘定を済ませるような付き馬まがいのことも何度かやった。
「まったく変わるもんだな」
そう言って安東が杯を差し出すとトメ吉はそのころの一番の売れっ子だったときを思い出させる笑顔で酒を注いでくれる。
「そうだ!今日はこの大事な会に欠席している不埒者がいるからそいつの分はトメさんに飲んでもらいましょう」
嵯峨は思いついたように斎藤の膳の上から杯を取るとトメ吉に差し出す。
「いいんですか?私、飲んじゃいますよ?」
あのころには無かった妖艶な笑み。安東は流れた時間を思い返すように徳利をトメ吉に差し出した。
「おっと手が早いのう。貞坊は昔からこれじゃ。本当に隅に置けんわ……恭子はどないしとんねん」
ニヤリと笑う赤松の顔を見ると安東の表情は曇った。赤松の妹で今は安東の妻である恭子。その病状を思い出すとどう赤松に説明すれば良いのか悩んだ。
「すまんな。しばらく家には帰っていないんだ。ただ最近はふさぎこむこともあまり無くなって色々話をしてくれるな」
作品名:遼州戦記 播州愚連隊 作家名:橋本 直