5月 枇杷の木
「あのふざけた派遣のスタッフは即刻切ったからな。全く私がいないと誰もそういう事言う奴がおらんのだから情けない話だ。佐藤君ありがとうな。ちゃんと注意出来て偉かったぞ。」班長はマスクの下からふがふがと陽子ちゃんを誉めてくれた。
陽子ちゃんは昨日お母さんとおばぁちゃんと一緒に美味しいステーキハウスに行ったのと同じ位嬉しくなった。
昼休憩でカウンターの端っこに座って雨に濡れそぼっている枇杷の木を見ながら、お母さん特製のスモークサーモンと卵のサンドウィッチを齧っている陽子ちゃんに「ここ、隣いいすか?」と誰かが聞いてきた。
最初、それが自分に向けて発せられている言葉だとは思わず、気付くのに少しかかった。見ると凉ちゃんがコンビニの袋を提げて居心地悪そうに突っ立っている。
「はっ、は、は、は、はい。どっ、ど、どどうぞ。」
あまりの突然の事に陽子ちゃんは顔を真っ赤にして戸惑った。そう言えば、初めて見た時以来ずっと食堂を使って昼ご飯を食べていなかったので、失礼ながらすっかり涼ちゃんの事を忘れていた。涼ちゃんは他の部署らしく仕事中に顔を合わす事もなかったからだ。今日は雨降りで庭に出れないのと昨日の事で頭が占領されていたのもあり、特に何も考えず食堂に来てしまっていただけだった。涼ちゃんの顔を見た時に、緊張したと同時に迂闊だったとも思い後悔し始めた。すっかり油断してしまっていたけど、こっちの方がこの間の派遣の男の子達より何倍も危険だった。けれど、席を変えるような不自然な事も出来ず、追いつめられるような格好になってしまっていたので途方に暮れてしまった。とは言っても、席を変えるだなんて失礼な態度を示せる立場じゃないのは百も承知だった。そんな事をしたら涼ちゃんがどんなに傷つくか。でもこの気まずい場から何とか逃れたかった。涼ちゃんはそんな陽子ちゃんの気等知らず、お礼を言って横の椅子に腰掛けた。でも、周りの席も空いている。
「俺、ここから見える風景が気に入ってるんで、昼はここに座って食う事にしてるんすよ」
陽子ちゃんは何も話しかけていないのに誰に言っているのか、凉ちゃんは顔を窓の外に向けたまま話した。それは遠回しに、そこは俺の指定席なんだからどいてくれと言う意味合いにも、ただ単に風景が気に入っているという言葉通りにもどちらにも聞こえる。陽子ちゃんは何と答えていいのやらわからず、真っ赤になって俯きながら、それでも何か言う為に横顔を盗み見るのも恥ずかしいのでひたすらスモークサーモンと卵のサンドウィッチを頬張ってなるべく早く食べ終わるように全力で咀嚼した。出来れば食べている時は横には顔を向けて、家族以外の人はあまり近くにいて欲しくなかった。口を開ける時に顎が外れたようになってしまう顔を見られたくなかった。だからいつも窓際に面したカウンターの端っこに隠れるようにして座る事にしていた。万が一誰かが隣に座ってきても顔を壁際に背けられる。今回も凉ちゃんと反対の壁際に少し体を向けて食べていた。
必死になって自分を隠そうとしている陽子ちゃんとは裏腹に、凉ちゃんはコンビニで買って来たらしい冷やしうどんを啜っていた。全部食べ終わると、飲み物を飲みながら黙って窓の外を見ていた。そして突然陽子ちゃんに聞いてきた。
「あのさ、間違ってたら悪いんだけど、あんた、佐藤陽子さんだよね? 俺、凉って言うんだけど、小さい頃に隣同士でよく遊んだの覚えてない?」
あまりに唐突な質問と真っ直ぐで透明な薄い色の視線に陽子ちゃんは狼狽えた。
「俺、あんたの顔見ても全然気付かなかったんだけど、同僚に聞いたんだ。あんたその顎、事故かなにかでなっちゃたんだろ?
なら俺の知ってる陽子ちゃんなんじゃないの?」
一時に巻き起こった葛藤に占領されて、陽子ちゃんは畳み掛けられた問いに対しての答えに窮した。
・・・どうしよう。凉ちゃんの言う事肯定したら、又昔みたいに仲良く出来るかもしれない。でも、今の凉ちゃんはすごく格好良いし、女子にも人気みたいなのに私みたいなのと一緒にいたらバカにされちゃう。私の顎はもう戻らない。もう元の私の顔には戻らない。だから私と凉ちゃんもあの頃に戻る事は出来ない。
・・・出来ない。
「ち、ち、違いま、ます。ひ、ひ、人違いです。わ、わ、わ、私はし、し、知らない。」
短い時間で考え抜いた挙げ句、陽子ちゃんの口から出てきたのは切ない否定の言葉だった。心優しい陽子ちゃんは自分を律してまで否定を貫くつもりだった。凉ちゃんは一瞬固まってしまい、しばらく陽子ちゃんを見つめていたが、ふと顔を背けた。
「そうすか。すみません、いきなり。気にしないで下さい」
微かに絶望の色を滲ませながら凉ちゃんは早口にそう言うと、さっと立ち上がって足早に去って行った。その後ろ姿を見送って残された陽子ちゃんは深い溜息をついた。きっと、きっとこれで良かったんだ・・・
去っていった涼ちゃんの後ろ姿が瞼の裏に張り付いたまま離れない。瞼の裏の涼ちゃんの残像は何個にも分裂されて、何度も何度も陽子ちゃんの前から去って行く。目眩がするようだ。陽子ちゃんは窓の外の枇杷の木を見た。雨に濡れて項垂れた枇杷の木は花を満開に咲かせていて、その花の周りを大きいアブみたいな気持ち悪い色をした虫が頻りに飛び回っていた。
それから1ヶ月後、凉ちゃんは工場の何処にも見かけなくなった。辞めたのかもしれない。陽子ちゃんは少し寂しくなって、あの時の事を後悔したりしたが努めて気にしないようにした。そして陽子ちゃんは26歳の誕生日を迎えた。
久しぶりに残業を免れて帰ると、玄関におばぁちゃんが出迎えてくれて何やら茶色い包みをそっと手渡してくれた。
「誰からだろうねぇ。名前がないんよ。爆弾ではないらしいぞ。ばぁちゃんがよっく振っといたからな。シャカシャカいっとったよ。マラカスかねぇ」
おばあちゃんから包みを受け取ると、自分の部屋に上がり恐る恐る包みを開けてみた。中には白いプラスチックの筒が入っているだけだった。マラカスにしては細長い。筒には小さな覗き穴が上と下に1つずつ空いている。これって・・・陽子ちゃんの胸は高鳴った。穴から覗いて見ると、枇杷の実のようなオレンジを基色として薄緑や水色の幾何学模様が色鮮やかに映っていた。万華鏡だ。しかも手作りの。筒を回していくと、いきなり鮮やかな赤色が広がった。
「ほら、覗いてみて。これ」
久しぶりに覗いた梅雨の切れ間、真っ青な空の下、息せき切って走ってきた涼ちゃんはニッコリ微笑んで、紫陽花の茂みに隠れるようにして踞ってカタツムリを見ていた陽子ちゃんに覗き穴が空いている千代紙を貼った筒を渡した。2人共まだ幼稚園に通っていた頃だ。幼稚園から帰ってきて陽子ちゃん家の庭で遊ぶ約束をしていた。陽子ちゃんはいきなり手渡された見慣れない筒を覗いてみて吃驚した。小さな穴の中には幾つもの色とりどりの美しい不思議な模様が回っている。
「すごいっ!すごいっ!綺麗ー!」
「でしょ? これ、万華鏡って言うんだよ!」小さな涼ちゃんは興奮して叫んだ。
「まんげきょう?」
「そう。僕の一番の宝物!3歳の誕生日にお父さんが作ってくれたんだ!」