5月 枇杷の木
派遣の男の子達は毎日毎日本当に騒がしかった。
年が若いからかなのか仕事の手はしょっちゅう止まり、中にはしゃがんだりしてまでぺちゃくちゃ喋っている。流れ作業の仕事なので、途中でそんな事になり流れが止まると全てが止まってしまう。陽子ちゃんは珍しく苛々していた。一日のノルマだって出荷前なので1000台になっていたのだ。もうすぐおやつ休憩なのにまだ500も終わってない。このままじゃ、残業しても終わらない。今日はおばぁちゃんのご飯作りをお母さんに頼まれているのに。どうしよう・・・
更には選りにも選って、今日は頼りになる班長が風邪をひいてしまい休みだった。班長がいてくれたら、一喝で終わる事なのに。他の社員達は注意をするのも面倒臭いのか、見て見ぬ振りして違う仕事をしたり話したりしている。
どうしよう・・・再び思案に暮れる。誰も注意しようとしていない。しばらく迷っていたが、完全に流れが止まってしまったので、とうとう陽子ちゃんは意を決して注意する事にした。近付きたくなかったが、許容範囲を超えて歩み寄った。
「あ、あ、あの!喋ってばかり、い、いないで、は、は、働いて下さい!な、な、な、流れが、と、と、止まって、め、迷惑なんでし!」
陽子ちゃんは出来るだけ大きくない声で言ったつもりだった。が、緊張していたのもあり作業場に大きく響いてしまい結果的に皆に注目される事になってしまった。しかも、その後がまずかった。
「ははは。ヤベー。しゃくれ怪物さんに注意されちまったー。つかさ、あんた日本語しゃべれたんだー? おい、仕方ねーからやろーぜー。これ以上怒らせちまったらオレらもあんな顔にされちまうかもしんねーもんなーおーこえー」
男の子達が投げつけてきた言葉は鋭い刃物となって陽子ちゃんに刺さり、刺さると同時に陽子ちゃんの目の前が真っ黒になってグラグラ回り出してきた。聞いていた同僚は思わず吹き出した。そのタイミングでおやつ休憩のベルがけたたましくなった。皆何事もなかったように一斉に休憩所に引き上げてて行った。あっと言う間に陽子ちゃん以外誰もいなくなった。
1人、陽子ちゃんは作業台に寄り掛かり、泣きたいのを必死に堪えて大きな窓から空を仰いだ。
今日は真っ青な晴天の筈だが、この作業場内の窓はスモークフィルムが貼ってあるので空はグレーがかって見えた。何も考えられないままボンヤリ見上げていた。頭の芯が痺れる。これは現実なのかそれとも悪夢なのかすら判別がつかない。ふと飛行機雲が細く横切って行った。それを見た所で陽子ちゃんの記憶は途切れた。陽子ちゃんはその場に卒倒してしまった。
目を開けるとそこは病院の病室だった。おばぁちゃんとお母さんが揃って心配そうに陽子ちゃんを覗きこんでいた。
「目ぇ開けたわー」
「あ、良かったぁ。良かったー」お母さんが涙を流していた。
「工場から陽子が倒れたって電話がかかってきて、もう心配したんだよ。お母さんも用事投げ出してタクシーで来たのよ。本当に良かった。」
「ほんに陽子は、いきなりだからいつも吃驚するんよー。顎の時もいきなりだったんやねー。」
安心したらしくおばぁちゃんもいつもと同じ呑気な調子にそう言うと、よっこらせとパイプ椅子に座った。
「お前の母ちゃんは倒れたくらいで取り乱して情けない。もっと落ち着かなきゃいかんよ。」
「だって、お義母さん。心配しますよ。この子はおっとりしているから。」
「陽子や、お仕事場でなにかあったのかい?」勘の鋭いおばぁちゃんが聞いてきた。
なにか・・・思い出そうとして頭がぼんやりした。嫌な言葉を投げつけられた。そんな事はいつもの事だし。その言葉の内容や言い方のバリエーションがちょとずつ違っているだけでどれも痛い傷になるのは変わらない。そんな事、いちいち覚えていたくもない。頭がぼんやりするのは防衛本能が働いているから。だから、陽子ちゃんは黙りこくった。そんな事言ったら、きっとお母さんは増々心配して下手したら仕事を辞めた方が良いって言い出すだろうし。おばぁちゃんは激怒して、そんな事を言った奴を連れて来いって工場まで乗り込んで来るかもしれない。顎の時もそうだったから。何しろうちで一番おっかないのはお父さんでも誰でもない。おばあちゃんなのだから。陽子ちゃんはまだあの工場を辞めたくはなかったし、余計に心配もかけたくなかった。
「う、う、ううん。だ、大丈夫。お、お、、お昼が、た、足りなかったのかも、し、ししれない。」
濁すようにして返事をしていると、看護婦さんが入って来て点滴を外した。
「はい。もう帰っても大丈夫ですよー。一時的に血圧が急激に下がったのね。なにか嫌な事でもあったんじゃないのかなー?」
尋問のような問いに、陽子ちゃんは何も答えられず俯いた。お母さんとおばぁちゃんはわかったように顔を見合わせた。
「そうだ。帰りに陽子の好きなもの食べに行きましょね」
「そうじゃ。そうじゃ。わしはステーキが食いたいぞ。」
「まーた、お義母さんは。年のくせにそんなボリュームのあるものばっかり好きなんだから。なにかあっさりした物がいいんですよ。体のためにも」
「毎日あっさりした脂っ気もそっけもない物ばっかり食っておるわ。それにな、老い先短い身だからして食いたい物を好きな様に食うのじゃ。」
「はいはい。わかりましたよ。陽子は何食べたい?」
「わ、私は、、、ハンバーグステーキがいい」
すると、おばぁちゃんがいきなり膝を叩いて言った。
「ならば、駅前のステーキハウスに決定じゃな!あそこはハンバーグステーキもカリカリに焼けておって上等じゃ。」
「あら、お義母さんあんまり外出しないのに、よくそんなハイカラな所ご存知ですね」
「わしは留守番時によく昼飯を食いに行っておる」
「え? そうなの?! どうりで昼にボリュームのあるもの食べてるから夜ご飯はちょびっとしか食べないんですね。全くお義母さんったら。出張しているパパに知られたらカンカンですよ」
「あやつは健康志向なもんで食には五月蝿いからの。大丈夫。まだバレてはおらんさ」
「全く・・・どうなっても知りませんから」
「あのように分厚い肉はわしのパワーの源なんじゃ。気の利かない息子と嫁の作る飯に飽き飽きして、じいさんとも連れ立ってよく食いに行ったもんじゃ。懐かしいのぉ。だから病気知らずじゃろ?」
「はいはい。そう言えばそうですね」
「ほっほっほっ。死んだじいさんもたくさん肉を食えと言っておったぞ。さっ行くぞ。わしは腹が減ってたまらん。」
おばぁちゃんは先に立って病室を出て行った。おじいちゃんは80歳になる手前だったが2年前に車にはねられて死んでしまった。確かにおじいちゃんも病気で病院に行った事が無いと言っていたのを思い出した。
「さすが、お、お、おばあちゃん、元気だね」
「まぁったく元気過ぎるくらいよー。陽子もおばぁちゃんを見習わないとね。」
お母さんはベッドから起き上がった陽子の手を引いておばぁちゃんの後を追った。
「佐藤君、君、体調は大丈夫かね? あまり無理しちゃいかんぞ」
ようやく風邪が治った班長がマスクを付けて出勤して来たのは、しとしとと雨が降る梅雨に入ったばかりの日だった。