5月 枇杷の木
陽子ちゃんの働いている工場の食堂の横には大きな枇杷の木があった。
昼休みになると、枇杷の木がよく見える窓際の一番端っこのカウンターに座ってお弁当を食べるのが陽子ちゃんの日課だった。陽子ちゃんはその工場で、携帯電話の部品を作っていた。作ると言っても、出来上がっている部品を組み立てるだけの流れ作業だったが、昼休憩40分とおやつ休憩20分以外の9時間は立ちっぱなしの作業なので以外とハードな仕事だった。
一日のノルマは最低でも500個。うっかり気を抜いていては終わらず残業になってしまう。
「佐藤君。もういいから休憩に行ってこい」班長が、誰もいなくなったのにまだ作業をしている陽子ちゃんに声を掛けた。
陽子ちゃんは組み立ての仕事が楽しくて仕方なかった。いつも休憩のベルが鳴っても耳に入らなかった。そのくらい陽子ちゃんは組み立てに集中していた。
「あ、あ、あの。す、すみません。あの、す、すぐ、い、いきます。」
陽子ちゃんは12歳の時に階段から転げ落ちて顎を強打してしまい、手術をしても完治せず顎が外れたようにずれていたので特に緊張すると上手く話が出来なかった。
「佐藤君はいつも真面目だからな」60歳近いおじさん班長はにこやかに微笑んだ。
またベルの音が聞こえなかったんだ・・・陽子ちゃんは少ししょんぼりして食堂の階段を上がって行った。すると、いつもの席に誰か先に座っている。新しく入った人だろうか。顔を見ようとして、驚いた。かなり成長してはいたが、陽子ちゃんが小さい頃、隣に住んでいてよく遊んだ幼馴染みの男の子だった。
「・・・凉ちゃん」
陽子ちゃんのそう呟いた声が聞こえたのか、その色素の薄い髪の毛の男の子は振り返って不審そうに陽子ちゃんを見た。が、僅かに眉間に皺を寄せたかと思うと又外を向いてしまった。凉ちゃんには、陽子ちゃんがわからないようだった。怪我をして顎が歪んでしまう前の子どもの時の可愛らしかった陽子ちゃんの顔しか凉ちゃんは知らなかったからだ。
陽子ちゃんは居たたまれない程悲しくなって、その場を音もさせずに通り過ぎると外に出た。青々とした芝生に腰を下ろした途端、堪えていた涙が出てきて陽子ちゃんは少しの間体育座りの膝に顔を押し付けた。こんな歪んだ顔じゃなければ、きっと凉ちゃんは気付いて笑顔を向けてくれたかもしれないのにと自責にも恨みにも似た感情が止めどなく込み上げてきた。誰にも当たれない。自分のせいなのかすらわからない。わかるのは何の悪戯か、ある日突然有無を言わせず押し付けられてしまったこの顎のせい。何もかもが。整形外科でも処置しようがない。諦めるしかない。仕方ない。いい加減に慣れざる負えなかった。けれど、何かしらにつけて浮上してくるどうしてなのかという疑問ばかりはいつまで経っても消えない。それでも必死に気付かない振りを装って暮らしてきた陽子ちゃんもさすがに辛かった。涼ちゃんは陽子ちゃんの初恋の相手だったから。
丁度陽子ちゃんが6歳の時、凉ちゃんのお父さんは突然脳出血で倒れて、そのまま帰らぬ人になってしまった。
凉ちゃんは、お母さんと一緒にお母さんの実家がある北海道に慌ただしく引っ越して行ってしまった。それは全てがあまりに突然で、あまりに早く決まってしまって、陽子ちゃんが凉ちゃんにお別れを言う時間すら貰えなかった。小学校で転校の事を知った陽子ちゃんが帰ってくると、既に涼ちゃんの家は空っぽだった。それから十何年もの歳月が過ぎて、陽子ちゃんは25歳になって、20歳の時にこの工場の雇用募集に応募して採用されて以来ずっと働き続けている。
又誰か何かの悪戯なのかもしれないと陽子ちゃんは思った。じゃなきゃ、どうして今更涼ちゃんが現れるのか。陽子ちゃんを哀れんでいるのか、それとも、もうとっくに過ぎ去った楽しかった思い出までもを容赦なく歪ませる為なのか。どちらにしても怖かった。それに、どうしていいのかわからなかった。あまりに悩み過ぎてしまった陽子ちゃんは、お弁当を食べるのもすっかり忘れてしまい、しばらくすると休憩時間終了のベルが工場に鳴り響いた。
次の日、新商品売り出しに向けて短期勤務の派遣社員が臨時雇いでたくさん入って来た。陽子ちゃんの部署も何人か男の子が回されてきた。
陽子ちゃんは男の子が心底苦手だった。話す事も近くにいる事すら嫌だった。彼らはいつの頃も陽子ちゃんがこの顎になってからどんな時も容赦なく陽子ちゃんを酷い言葉で罵倒し、虐めや差別を行ってきた。陽子ちゃんが彼らに何かをした訳ではないのに。話すらしていないのにも関わらず。単なる暇潰しの種として、陽子ちゃんの事を勝手にどうのこうのと詮索する。どうして何も関係ないのにあんな事をしたり言ったりするのか。放っといて欲しいだけなのに、彼らは時間を持て余すと陽子ちゃんの後をついて回った。執拗に陽子ちゃんの顔や喋り方の真似をしては馬鹿にして大笑いをした。高校時代には好きだった先輩に勇気を出してラブレターを書いて靴箱に入れておいたら、先輩の友達にも回し読みされて次の日からじろじろ見られてはバカにされて笑われる生活が待っていた。当の先輩は何事もなかった様に可愛い顔をした彼女を作った。
陽子ちゃんは人目を恐れ、お昼休みになると一切の人を避けて外に出て1人でお弁当を食べて遣り過ごした。暑くても寒くても陽子ちゃんは外でお弁当を食べた。教室にいてバカにされるよりマシだったから。確か通っていた高校のよくお弁当を食べていた所にもあまり大きくない枇杷の木が植わっていた。揶揄われて悔し涙を我慢したり、自暴自棄になりそうな陽子ちゃんの心と姿を葉っぱをいっぱいに茂らせてそっと隠して慰めてくれた琵琶の木。どんなに安心して昼休みを過ごす事が出来たか。
そう言えば、枇杷の木も嫌われ者だと何処かで聞いた事がある。一年中ずっと葉が茂っているし、すごく成長するパワーが強いので大きくなって日陰になりやすいし、土の成分がたくさん取られてしまうとか何とか。でも、葉は枇杷茶にして飲んだりすると体に良いとか言うし、実だって地味な味だけど美味しい。結局誰も彼も、自分の都合や見解で勝手に散々言ってるんだ。別に何の害を与える訳でもないのに、そうやって口にしないと済まない自己中な人が世の中にはいっぱいいるんだ。枇杷の木も私も誰にも何もしていないのに、勝手に決めつけてとやかく言って。何だか枇杷の木の気持ちがわかるような気がした。陽子ちゃんはそれを知った時から増々枇杷の木に好感を持つようになった。
なるべく派遣の男の子達から遠ざかるようにして仕事をこなして行く陽子ちゃんは横目で工場の窓を見遣った。窓ガラス越しに葉を茂らせた木々が見える。中でもひと際大きな琵琶を見つけて目を細める。この工場の枇杷の木もとても好きだった。
陽子ちゃんは仕事が終わって、工場の送迎バスを待っている人が多い時には時間を潰す為に枇杷の木の下まで歩いて行く。今は白い小さい花がたくさん咲き始めている。
春から夏に向かう湿気が多くなった心地いい風が吹いて濃い緑色の波だった葉が優しく揺れた。まるで大丈夫大丈夫と言ってくれてるみたいに。陽子ちゃんは20分程そこに立ち尽くして枇杷の木を見上げていた。
昼休みになると、枇杷の木がよく見える窓際の一番端っこのカウンターに座ってお弁当を食べるのが陽子ちゃんの日課だった。陽子ちゃんはその工場で、携帯電話の部品を作っていた。作ると言っても、出来上がっている部品を組み立てるだけの流れ作業だったが、昼休憩40分とおやつ休憩20分以外の9時間は立ちっぱなしの作業なので以外とハードな仕事だった。
一日のノルマは最低でも500個。うっかり気を抜いていては終わらず残業になってしまう。
「佐藤君。もういいから休憩に行ってこい」班長が、誰もいなくなったのにまだ作業をしている陽子ちゃんに声を掛けた。
陽子ちゃんは組み立ての仕事が楽しくて仕方なかった。いつも休憩のベルが鳴っても耳に入らなかった。そのくらい陽子ちゃんは組み立てに集中していた。
「あ、あ、あの。す、すみません。あの、す、すぐ、い、いきます。」
陽子ちゃんは12歳の時に階段から転げ落ちて顎を強打してしまい、手術をしても完治せず顎が外れたようにずれていたので特に緊張すると上手く話が出来なかった。
「佐藤君はいつも真面目だからな」60歳近いおじさん班長はにこやかに微笑んだ。
またベルの音が聞こえなかったんだ・・・陽子ちゃんは少ししょんぼりして食堂の階段を上がって行った。すると、いつもの席に誰か先に座っている。新しく入った人だろうか。顔を見ようとして、驚いた。かなり成長してはいたが、陽子ちゃんが小さい頃、隣に住んでいてよく遊んだ幼馴染みの男の子だった。
「・・・凉ちゃん」
陽子ちゃんのそう呟いた声が聞こえたのか、その色素の薄い髪の毛の男の子は振り返って不審そうに陽子ちゃんを見た。が、僅かに眉間に皺を寄せたかと思うと又外を向いてしまった。凉ちゃんには、陽子ちゃんがわからないようだった。怪我をして顎が歪んでしまう前の子どもの時の可愛らしかった陽子ちゃんの顔しか凉ちゃんは知らなかったからだ。
陽子ちゃんは居たたまれない程悲しくなって、その場を音もさせずに通り過ぎると外に出た。青々とした芝生に腰を下ろした途端、堪えていた涙が出てきて陽子ちゃんは少しの間体育座りの膝に顔を押し付けた。こんな歪んだ顔じゃなければ、きっと凉ちゃんは気付いて笑顔を向けてくれたかもしれないのにと自責にも恨みにも似た感情が止めどなく込み上げてきた。誰にも当たれない。自分のせいなのかすらわからない。わかるのは何の悪戯か、ある日突然有無を言わせず押し付けられてしまったこの顎のせい。何もかもが。整形外科でも処置しようがない。諦めるしかない。仕方ない。いい加減に慣れざる負えなかった。けれど、何かしらにつけて浮上してくるどうしてなのかという疑問ばかりはいつまで経っても消えない。それでも必死に気付かない振りを装って暮らしてきた陽子ちゃんもさすがに辛かった。涼ちゃんは陽子ちゃんの初恋の相手だったから。
丁度陽子ちゃんが6歳の時、凉ちゃんのお父さんは突然脳出血で倒れて、そのまま帰らぬ人になってしまった。
凉ちゃんは、お母さんと一緒にお母さんの実家がある北海道に慌ただしく引っ越して行ってしまった。それは全てがあまりに突然で、あまりに早く決まってしまって、陽子ちゃんが凉ちゃんにお別れを言う時間すら貰えなかった。小学校で転校の事を知った陽子ちゃんが帰ってくると、既に涼ちゃんの家は空っぽだった。それから十何年もの歳月が過ぎて、陽子ちゃんは25歳になって、20歳の時にこの工場の雇用募集に応募して採用されて以来ずっと働き続けている。
又誰か何かの悪戯なのかもしれないと陽子ちゃんは思った。じゃなきゃ、どうして今更涼ちゃんが現れるのか。陽子ちゃんを哀れんでいるのか、それとも、もうとっくに過ぎ去った楽しかった思い出までもを容赦なく歪ませる為なのか。どちらにしても怖かった。それに、どうしていいのかわからなかった。あまりに悩み過ぎてしまった陽子ちゃんは、お弁当を食べるのもすっかり忘れてしまい、しばらくすると休憩時間終了のベルが工場に鳴り響いた。
次の日、新商品売り出しに向けて短期勤務の派遣社員が臨時雇いでたくさん入って来た。陽子ちゃんの部署も何人か男の子が回されてきた。
陽子ちゃんは男の子が心底苦手だった。話す事も近くにいる事すら嫌だった。彼らはいつの頃も陽子ちゃんがこの顎になってからどんな時も容赦なく陽子ちゃんを酷い言葉で罵倒し、虐めや差別を行ってきた。陽子ちゃんが彼らに何かをした訳ではないのに。話すらしていないのにも関わらず。単なる暇潰しの種として、陽子ちゃんの事を勝手にどうのこうのと詮索する。どうして何も関係ないのにあんな事をしたり言ったりするのか。放っといて欲しいだけなのに、彼らは時間を持て余すと陽子ちゃんの後をついて回った。執拗に陽子ちゃんの顔や喋り方の真似をしては馬鹿にして大笑いをした。高校時代には好きだった先輩に勇気を出してラブレターを書いて靴箱に入れておいたら、先輩の友達にも回し読みされて次の日からじろじろ見られてはバカにされて笑われる生活が待っていた。当の先輩は何事もなかった様に可愛い顔をした彼女を作った。
陽子ちゃんは人目を恐れ、お昼休みになると一切の人を避けて外に出て1人でお弁当を食べて遣り過ごした。暑くても寒くても陽子ちゃんは外でお弁当を食べた。教室にいてバカにされるよりマシだったから。確か通っていた高校のよくお弁当を食べていた所にもあまり大きくない枇杷の木が植わっていた。揶揄われて悔し涙を我慢したり、自暴自棄になりそうな陽子ちゃんの心と姿を葉っぱをいっぱいに茂らせてそっと隠して慰めてくれた琵琶の木。どんなに安心して昼休みを過ごす事が出来たか。
そう言えば、枇杷の木も嫌われ者だと何処かで聞いた事がある。一年中ずっと葉が茂っているし、すごく成長するパワーが強いので大きくなって日陰になりやすいし、土の成分がたくさん取られてしまうとか何とか。でも、葉は枇杷茶にして飲んだりすると体に良いとか言うし、実だって地味な味だけど美味しい。結局誰も彼も、自分の都合や見解で勝手に散々言ってるんだ。別に何の害を与える訳でもないのに、そうやって口にしないと済まない自己中な人が世の中にはいっぱいいるんだ。枇杷の木も私も誰にも何もしていないのに、勝手に決めつけてとやかく言って。何だか枇杷の木の気持ちがわかるような気がした。陽子ちゃんはそれを知った時から増々枇杷の木に好感を持つようになった。
なるべく派遣の男の子達から遠ざかるようにして仕事をこなして行く陽子ちゃんは横目で工場の窓を見遣った。窓ガラス越しに葉を茂らせた木々が見える。中でもひと際大きな琵琶を見つけて目を細める。この工場の枇杷の木もとても好きだった。
陽子ちゃんは仕事が終わって、工場の送迎バスを待っている人が多い時には時間を潰す為に枇杷の木の下まで歩いて行く。今は白い小さい花がたくさん咲き始めている。
春から夏に向かう湿気が多くなった心地いい風が吹いて濃い緑色の波だった葉が優しく揺れた。まるで大丈夫大丈夫と言ってくれてるみたいに。陽子ちゃんは20分程そこに立ち尽くして枇杷の木を見上げていた。