珈琲日和 その2
図書館まで散歩がてら歩いて行った。途中持って来たカメラで風景を撮ったり野良猫と遊んだり、結構有名な甘納豆屋さんで甘納豆を買ったりしながらゆっくり図書館までの道を歩いた。
甘納豆屋さんが休業になる前に買えて良かった。僕はここの甘納豆がお気に入りで急に食べたくなる時があるのだ。
あ、あんな所に新しくカフェが出来たんだ。帰りに寄って昼飯を食べて行こう。
あそこの花屋は移転したんだな。高級マンションが建つらしい。
本当に気持ち良い午前中だった。今日みたいな日は働いていても休みでも公平に気持ち良く過ごせる日だなどと考えていたら図書館に着いた。
古い作りの図書館には吹き抜けの貸し出し受付ホールがあって、そこを取り囲むようにして2階まで本棚が縦にぐるっと取り巻いている形になっている。本棚の奥は窓や壁に行き当たりそこに読書したり勉強する為のカウンターやテーブル席や椅子等が彼方此方に置かれている。2階の吹き抜けのホールを見下ろせるバルコニーの手すりの傍にも幾つかベンチが設置されていた。
僕はこの図書館が大好き。休みの日のスタートは何はともあれこの図書館からだった。
小説を幾つか借りてカメラの専門書を見つけてしばらく読み耽った。
しばらくすると急にフィンランドの住宅構造がとても気になり始めた。何故そうなったのかはわからないが、僕は時々急に全く関係ない事がすごく気になり始めて仕方なくなったりするのだ。
多分ムーミンの歌か何かが不意に浮かんできてそこから関連したのかもしれない。
僕は受付の女の子にフィンランドの住宅構造について記されている書物があるかどうか調べてもらった。
女の子はとても綺麗な肌と唇と睫毛を持っていた。薄化粧なのにつやつやと瑞々しい肌はまるでオリーブの実のようで、そこに更につやつやぷっくりとしたピンクベージュ色のアヒルみたいな嘴じゃなかった唇が乗っていた。睫毛は自然なカーブを描いてフサフサとして長かった。もしかしたら今流行の付け睫毛なのかもしれない。
どちらにせよ僕には充分素敵な女の子だった。
本は2冊見つかった。
彼女はカウンターの隣の古びた鉄の扉を開けて中に入って行った。5分程経って、もしかしてフサフサ睫毛のぷっくりアヒル口のオリーブ少女はあの扉から何処か違う世界に行ってしまったんじゃないかと心配し始めた時扉が開いて分厚い大型本を2冊抱えた女の子が出てきた。
「申し訳ございませんが、貸し出しが出来ない本なので、あちらの窓際の閲覧コーナーでご覧下さい」
僕はにっこり笑って「構わないよ。重いのにありがとう。」と言ってかなり重いその本を抱え窓際の席に移動した。
今日は良い日だなぁ。。
僕は上機嫌でフィンランドの住宅構造についての分厚い蔵書をまず一冊捲る。
中には設計図と、恐らくフィンランド語だと思われる文字がまるで広い広い草原一面にびっしりと草が生えているように並んでいた。とりあえず図は興味深かったのでぱらぱらと捲っては眺めていたのだが、段々頭の芯がぼんやりし始めてきて本の中の文字の草原が風に靡いて波打ち始めた。
何しろ、座っている席の窓から見える景色は爽やかに眩しくて暖かくて、文句のつけようもない初夏の気持ち良さ。
草原にはフィンランドの赤錆色に塗られた壁の昔ながらの可愛い家が一軒建っていて、煙突からは美味しそうな煙が立ち上っている。。 僕は空腹のあまり、草原を歩いて行ってその家の扉をノックする。
トントン。
トントン。
トントントン。
「すみません。あの、こちら落としましたよ。」近くで優しい声がして僕ははっとして目を覚ました。
うちの店のお客様、ご夫婦の奥様だった。
いつもは上品な色のワンピースやブラウスにスカートなど控えめな服装をしているのに、今日は若葉色に香色の葵文様を型友禅で染めて金箔で括ってある着物に深く濃い緋色の帯を締めている。
「すみません。ありがとうございます。」僕は恥ずかしさに顔を真っ赤にしてべっとり垂れてる涎を拭い、僕が居眠りして派手に落とした本を受け取った。
「あら。あらあらあら。何処かで見た方だと思っていたら、あなたは喫茶店のマスターさんね。私服だから気付かなかったわ。ごめんなさい。今日はお店はお休みなのね。。」
「そうなんです。久しぶりに休みにしました。」
奥様は心持ち寂しそうな顔つきになって
「そうなのね。今日は寄らせて頂こうと思っていたから少し残念だわ。こんなに気持ちの良いお日和ですものね。」
「申し訳ございません。明日からまたお願いします。」僕が謝ると、奥様はまるで蕾が咲く様に笑って
「マスターさんが謝る事なんてないのよ。私達のタイミングが悪かっただけ。でもここでマスターさんにお会い出来たからわざわざ遠回りしてお休みの喫茶店に行かなくて済んだわ。ありがとう。」奥様はまるで春の鶯みたいに澄んだ声で話した。
僕は居眠りしていた事もあり、何だか気恥ずかしくてあまり話が出来なかったように思う。
しばらくすると、後ろの本棚からひょっこりご主人が表れて僕ににこやかに会釈すると奥様と一緒に外に出て行った。昼ご飯でも食べにいったのだろう。
そういえば僕も猛烈にお腹が減っていた。時計を見るともう13時だった。
2冊目の本を少し開いて、中が文字ばかりである事と、その文字が僕には解読不可能なのを確認してからカウンターに返しに行った。
もうあのフサフサ睫毛のぷっくりアヒル口のオリーブ少女はいなかった。多分、昼休憩に行って飯を食った後彼氏に電話でもしているんだ。
代わりにすごく無愛想な禿頭のおじさんがいた。
おじさんは無表情な顔で無言で僕から本を受け取り無造作に横の机の上に置き、さっさと背中を向け違う仕事に取りかかった。
おじさんは頭の上も無いように全ての行動にも無が付いていた。いくら接客業じゃないにしても、酷い。
やれやれ。
僕は気を取り直して昼飯を食べに、さっき見かけたカフェへ向かった。
空は変わらず清々しく晴れていて、僕はすっかり気分が良くなった。Janis Ianを口笛で吹きながら大通りの横を通り過ぎた時、女性が激しく怒っている声が聞こえて思わず立ち止まった。
思わず、興味本位でこっそり声のする方を覗いてみると、僕の目に明るい若緑色と緋色のコントラストが飛び込んできたのです。
何と凄い剣幕で怒っているのは先程図書館で会ったあの奥様だったのです。もちろん怒られていたのはご主人。
奥様は今までに無い程怒っていました。怒りを通り越して泣いてしまうんじゃないかと思われるくらいに怒っていました。
ご主人はただびっくりしている様で呆然と奥様を見つめていました。
どうした事でしょう??
先程はあんなに仲睦まじくにこやかに会話をしていたのに。。
僕もただびっくりしてしまいそのまま突っ立っていましたが、思い直して足早に立ち去りました。きっとあまり見られたくない筈です。
目的のカフェに着いてメニューの一番始めにあったロールキャベツプレートと珈琲をあまりよく考えもせず注文して、運ばれてきた檸檬水を一気に飲み干し気持ちを落ち着けました。