小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

珈琲日和 その2

INDEX|3ページ/3ページ|

前のページ
 

 驚きました。本当に。人それぞれ色々と思う事があるのは僕なりによく解っているつもりです。
 でも、あんなに温和な奥様をあそこまで怒らせた原因は一体何だったのだろう?
 よっぽどの事があったのでしょう。少なくとも僕と別れてからの数時間の間に起こった何かなんでしょうけど。。
 そう思い、ふと壁に貼ってある鮭フライプレートの絵に目が止まった。
しまった。。こっちにすれば良かった。


 それからしばらくご夫婦は姿を見せなくなりました。
 夏の蒸し暑いある雨の日、ご主人だけがふらっと立ち寄って下さいました。何処となく疲れた様な顔色をしていらっしゃいました。
 僕は敢えて何も聞きませんでした。
 人には触れて欲しくない部分が必ずありますし。いくら親しくてもある一線からは立ち入らない方がお互いにとっても良い場合もあります。もちろん悪い場合だってありますけど。
 僕は黙ってカフェオレをお出しました。
 ぽつぽつ雨垂れの音がしています。その音と今日かけているAstor piazollaが相俟って、何とも寂しい心地になっていました。
 音楽を変えようと思って探そうとした丁度その時、ご主人が雨垂れがぽつりと落ちる様に話しかけてきたのです。
「妻は一ヶ月前に死にました」
「えっ?!」急な事に僕はビックリしてしまい持っていたCDを落としてしまいました。
「ごめんなさい。そうだったんですか。。それは本当にお気の毒様です。」僕は慌ててCDを拾いました。幸い傷は付いていませんでした。
「子宮癌でした。かなり前から病院にかかっていたらしいんですが、どうも裏の方か何かの丁度見つかりずらいところだった様でようやく発見した時には末期になるまで進行していて、もう手遅れでした。」ご主人はカウンターの上で両手を固く強く握りしめて話続けました。
「それでも妻は私には何も言わなかったんです。自分が後少しで死ぬのがわかっていても、それを私に知らせて残りの時間を私と悲しみながら過ごす事に耐えられなかった様です。いつもと同じに何も変わらず過ごしたかった様です。だから私は妻が亡くなる一ヶ月まで何もわからなかったんです。能天気に。バカですよ。本当に。妻は私だとか言っていながら妻が私に見えない所でどんなに苦しんでいたかなんて気付きもしなかったんです。苦痛に堪えながら自分の体が徐々に死んで行く現実と戦いながら私にいつもと変わらず笑ってくれていたんです。私は妻のパートナーとして失格です。一番妻を支えてやるべき時に、私が取るに足らない悩みで妻に支えられていたんですから。」
 音楽が止みました。
 僕は何も考えず特に見もしないで近くにあったCDをかけました。Glenn Gouldが流れ出しました。
「4ヶ月くらい前にマスターと図書館でお会いしたの覚えてますか?妻がまだ少し余裕のある頃でした。」
 僕は静かに頷きました。
「あの後、妻が私に怒ったんです。今まで連れ添って来て初めての事でした。私も吃驚してしまって思えばその時に様子がおかしいと気付くべきだったんです。原因は私が言った無神経な事でした。」ご主人は静かにカフェオレを一口飲みました。
「妻が公園で子どもを見ていたのです。お恥ずかし話ですが、私共の間には子どもがいないのです。ですが妻は本当に子どもが好きだったのです。出来なかった原因は恐らく私にあったのかもしれませんが、もう長い事2人だけの生活に慣れてしまっていたので特に子どもが欲しいとも思わなかったのです。妻はそんな私の気持ちをよく承知していました。だからもう何も言わなかったのです。が、その時だけは違いました。妻がふと、私も子どもが欲しかったわと言ったのです。私は子どもなんていなくったって私と君だけで充分じゃないかと冗談混じりに言ったのです。いつもの妻なら笑って返してくれる事がその日はいきなり怒り出してしまったのです。」
 店の前を静かに水溜まりを蹴散らし車が通り抜けました。
「何言ってるの?!私はあなたとの子どもが欲しかったの!あなたの子どもを産む事が出来たら私にはこれ以上ない女の幸せなの!今はあなたと私だけでいいわ。だけど、私がいなくなっても子どもがいれば慰めにもなるかもしれない。私はあなたといつまでも一緒にいたいけれどそう上手くなんていかないの!・・私が妻が何を言っているのかわからずに宥めるしかなかったのです。その2ヶ月後に妻が癌だと知ったのです。妻は死ぬ間際に私の手を握って何度も私に謝りながら言っていました。」
「ごめんなさい。私はあなたに出会えて本当に幸せだった。こうやってあなたを残して先に死んでしまうの事は悲しいけど生まれて来て良かった。ありがとう。あなた、どうか私を許して。ごめんなさい。・・・そう言って何度も繰り返して泣くのです。妻を母にしてあげるという女としての幸せも与えてやれず、一番苦しい時に支えてやれもしなかったこの不甲斐無い夫に向かって何度も・・・」そこまで言うとご主人は俯いて不意に立ち上がりました。
「ありがとう。ご馳走様。」お代を置いてお帰りになられました。
 僕はCarole Kingをかけました。
 奥様はCarole Kingが好きでした。
 外はまだ雨がしとしとと降っていました。



 紅葉が色づき始める頃、風の噂にご主人が亡くなった事を知りました。
 死因は急性心不全だったそうです。
 つがいの鳥は片方が死んでしまうと残された方も後を追うようにすぐ死んでしまうと言います。
 ご主人がお亡くなりになった時にきっとあの優しかった奥様が迎えにいらっしゃったのでしょう。そうであって欲しいです。そうしたら、又2人はずっと一緒にいられるのですから。
 何とも寂しいような優しいお話でした。
 では又。
作品名:珈琲日和 その2 作家名:ぬゑ