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遼州戦記 墓守の少女

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 嵯峨が立ったまま目の前のワインを飲んでいる老人に頭をかいて照れ笑いを浮かべているのが見えた。その老人のとなりに点滴のチューブがあるのを見てクリスはその老人が無理を押して嵯峨を尋ねた人物であると察しがついた。近づいていくクリスの視界に映ったその横顔を見ただけでそれが誰かを知った。
「ダワイラ・マケイ主席……」 
 握った手に汗がまとわり付く。意外な人物の登場にクリスは面食らっていた。
「やあ、ホプキンスさん!」 
 頭の血の気が引いていくクリスを振り返る嵯峨。老人は立ち上がろうとしたところを伊藤に止められた。
「君か、嵯峨君の取材をしている記者と言うのは」 
 明らかにその顔色はよくない。ただその瞳の力はダワイラ・マケイと言う革命闘士らしい精神力を秘めているようにクリスには見えた。伸ばされた手に思わず握手している自分に驚きながらクリスは嵯峨の隣の席に座っていた。テーブルの上にはブルーチーズとクラッカーが置かれている。ダワイラはクラッカーを手に取るとブルーチーズを乗せて口に運んだ。
「久しぶりの固形物がこんな贅沢なものだとは……嵯峨君の心遣いにはいつでも感服させられてばかりだね」 
 そう言って笑みを浮かべるダワイラの青ざめた顔にクリスは不安を隠せなかった。
「そう言ってもらえると用意したかいがあるというものですよ」 
 そう言って嵯峨も同じようにブルーチーズをクラッカーに乗せた。
「さすがにワインはまずいのでは……お体に障られる……」 
「伊藤君は心配性だな。どうだね。実は私が彼を紹介したわけだが、こう融通がきかんと疲れることもあるんじゃないかな?」 
 その余裕のある微笑みは病人のものとは思えなかった。図星を指された嵯峨が頭を掻く。
「いえ、私の方が伊藤には迷惑かけてばかりで……」 
「いや、彼にも君にも良い経験だ。君達のような青年が増えれば遼南にも希望が見えると言う物だよ」 
 ダワイラはからからと笑う。クリスはその時折見せる苦痛の混じった顔から彼の病状がかなり進行していることがわかった。しかも教条派が台頭してきている北天の人民政府。ダワイラの隠密での視察はかなりの無理をしてのことだろうということはクリスにも想像できた。そして、そうまでして嵯峨に何かを伝えようとしている覚悟がわかって、クリスはじっとダワイラを見つめた。
「さっきから世間話ばかりしているようだが何を私が言いたいかはわかっているようだね、嵯峨君」 
 静かにワイングラスを置いたダワイラが眼鏡を直す。沈黙が場を支配した。
「終戦後のことではないですか?」 
 こちらも静かに嵯峨の口から言葉がこぼれた。ダワイラは目を閉じて大きく息を吸ってから話を切り出した。
「今の人民政府は腐り始めている」 
 ダワイラのその言葉にどこと無く影があるようにクリスには見えた。自分が夢を追って作り上げた国が理想とはかけ離れた化け物に育ってしまった。そうそのかみ締めるようにワインを含む口はそう言いたげだった。
「まあ権力なんてそんなものじゃないですか?手にしたら離したくなくなる。別に歴史的に珍しい話じゃない」 
 嵯峨のその言葉にもどこと無くいつもの投げやりな調子が見て取れた。
「だがこの国はそう言うことを言えるほど豊かではない。しかし彼らも本来は権力闘争などが出来る状態でないことくらいわかる知恵のある人物だったのだがね。本当に権力は人を狂わせる麻薬だ」 
 ダワイラはそう言うと力なく笑った。彼が作った人民の為の組織であったはずの遼南人民党。通称北天政府の末端での腐敗をクリスは目の当たりに見てきただけに黙って老革命家の言葉を聞いていた。
 しばらく空虚な笑みに体を走る痛みを意識していたダワイラだが、すぐにその目に生気が戻った。
「その麻薬に耐性のある人物に率いられてこそこの国の未来がある。違うかね?」
 子供のような表情に変わる瀕死の老人。その言葉に嵯峨も静かに笑みを返した。 
「それが私だって言うんですか?買いかぶりですよ」 
 嵯峨もワインを口に含む。伊藤が空になった嵯峨のグラスにワインを注いだ。
「君は生まれながらに知っているはずだ。権力がどれほど人を狂わせるかを。先の大戦での胡州の君に対する仕打ち、義父の片足を奪い、妻を殺し、負けの決まった戦場に追い立てた胡州の指導者達のことを。そしてさかのぼればこの国を追われることになった実の父親との抗争劇を」 
「まあできれば権力とは無縁に生きたかったのですが、どうにも私はそんな生き方は出来ないようになっているらしいですわ」 
 嵯峨そう言うと自虐的な笑いを浮かべる。
「そんな君だから頼めるんだ」 
 その革命闘士の視線は力に満ちていた。頬はこけ、腕は筋ばかり目立つほどに病魔に蝕まれながら、ダワイラは嵯峨をかつての同志を励ましたその目で見守っていた。
「玉座に着けというわけですね」 
 嵯峨のその言葉に沈黙がしばらく続いた。
「そうだ」 
 ダワイラの言葉は非常に力強く誰も居ないカフェテラスに響いた。事実上の帝政の復興を認める人民政府元首の発言である。クリスは額を脂汗が流れていくのを感じていた。
「しかし、今はそう言うことは言える段階じゃないでしょう。それに俺には今の人民政府の連中に対抗できるだけの人脈も無い。俺はね、独裁者になるつもりはないですから」
 そう言ってワインを飲む嵯峨。その無責任な態度にさすがのクリスも立ち上がりかけたところだった。だが老人は静かに言葉を続ける。 
「ならば時間をかけてその準備をすれば良い。私と違って君には時間がある。一つ一つ問題を解決していけばいいんだ」 
 そう言うとダワイラはワインを一口含んだ。クリスは緊張していた。事実上の一国の国家権力の禅譲。その現場に居合わせることになるとはこの取材を受けた時には考えられない大事件に遭遇している事実に緊張が体を走る。
「君は君のやり方で進めば良い」 
 そう言うとダワイラは力が抜けたように車椅子の背もたれに体を投げた。
「それにどうやら私の役目は終わったようだ」
 老革命家はそう言うと静かに車椅子の背もたれに寄りかかって嵯峨を見つめる。彼の土色の表情を見れば下手な励ましが無意味だと言うことを思い知ることになる。クリスはそう重いながら嵯峨の表情を探った。 
「そんなことは無いですよ、あなたにはこの戦いの結末を見る義務がある」 
 この言葉に嵯峨は真意を込めているようにクリスには見えた。それまでのふざけた様子が消え、にごっているはずの目もするどくダワイラを見つめている。
「ありがとう。私もそうしたいものだ」 
 そう言うとダワイラは静かに目を閉じた。
「だがこの戦いが終わるまで私の体は持たないだろう。そのことくらいはこの年になれば分かる」 
 伊藤は励ましの言葉をかけようと身を乗り出したが、ダワイラは彼を制した。
「癌だとわかったのは二十年前だ。ちょうど伊藤君達が武装蜂起を始めた頃だろう。私もその頃は病魔などに負けてたまるかと手術をすることに戸惑いなど無かった」 
 静かに天井を見つめるダワイラ。その目は非常に穏やかだった。
作品名:遼州戦記 墓守の少女 作家名:橋本 直