遼州戦記 墓守の少女
シンはそう言うと静かに胸のポケットから写真を取り出した。クリスはそちらに体を乗り出す。そこには緑の髪のパイロットスーツを着た女性が写っていた。彼女の髪の色を見れば出自が人工的なキーラと同じ『ラストバタリオン』であることは容易に想像できた。
「恋人ですか?」
身を乗り出したキーラの言葉に恥ずかしそうに頭を掻くシン。
「彼女には今回の作戦のお守りだとは言ってあるんだけどね」
苦笑いを浮かべるシンの顔が生き生きとして見える。クリスはそんなシンを見ながら立ち上がった。
「ノロケ話を聞くほど暇じゃありませんか?」
「そう言うわけじゃないんですが、この本部の主の顔を拝もうと思いましてね」
クリスはそう言うと椀を舐め続けているシャムを置いて歩き出した。
「シャムちゃん!シャワーを浴びるよ!」
「嫌だよ!目が痛いの嫌だよ!」
クリスは後ろで叫んでいるキーラとシャムのやり取りを後ろに聞いて、テントの並び立つ空き地から本部ビルを目指した。
そんなクリスの目の前、本部ビルの前に子供達の一群が出来ていた。クリスが近づけば、その子供達の手にはカブトムシやクワガタが握られている。
「じゃあ、次の対戦相手は誰だ!」
「はい!アタシ!」
そう叫んだ少女の前、子供達の歓声の中、座り込んでいるのは嵯峨だった。一際大きなカブトムシを手に持った彼が、薄汚れた桜色のワンピースを着た少女のクワガタを受け取ると、板の上に二匹を乗せる。
「じゃあ、これで勝てば十二連勝だぞ!」
「僕のも、次は勝てるよ!」
「馬鹿だなあ、あんまり連続で対戦すると死んじゃうぞ。俺は次はコイツを出すつもりだから」
嵯峨がそう言って取り出したのは大きなクワを翳すクワガタだった。
「じゃあ!はじめ!」
嵯峨の言葉に虫の激闘が始まる。
「あのー」
クリスは笑顔を振りまく子供達の間を抜けて嵯峨の隣に立った。
「ちょっと待ってくださいよ!」
嵯峨はそう言うと自分のカブトムシをせきたてる。目の前の少女も自分のクワガタの角が嵯峨のカブトムシの体の下に差し込まれたのを見て雄叫びを上げる。
「やべえ!」
嵯峨のカブトムシは連戦で疲れたのか、そのままじりじりと後退を始めた。
「行っけー!」
少女の心が届いたようにクワガタはじりじりと土俵の外へと嵯峨のカブトムシを追い立てる。
「だめか?だめか?」
嵯峨の言葉に戦意をそがれたように、カブトムシはそのまま土俵の下に落ちた。
「やったー!次はアタシが対戦するよ!」
嵯峨は頭をかきながら立ち上がる。子供達は次に誰が少女のクワガタに挑戦するかを決めるじゃんけんを始めた。
「すいませんねえ、ホプキンスさん。つい童心に帰ってしまって」
そう言いながら嵯峨は本部ビルに歩き始めた。
「しかし、ずいぶん用意が良いんですね」
「ああ、あの虫は今朝、採って来たんですよ。まあ、シャムに取れそうな場所を教えてもらいましたから」
嵯峨はいつものように胸のポケットにタバコを漁っていた。
「ああ、タバコ切らしちまったか」
そう言うと嵯峨はそのまま本部に入る。人影がまばらなのは早朝だということよりも難民に手を奪われてるからだろう。
「まあ、みんな良く働いてくれますよ」
クリスの意図を読んだかのようにそう言いながら嵯峨はそのままエレベータに乗る。
「これからどうなるんですか?」
クリスの問いに、表情も変えない嵯峨。
「まあ、北天や遼北には受け入れを頼めるわけも無いですからねえ。とりあえず西部の西ムスリム国境に現在仮設住宅を建設中というところですな」
いつにも無くすばやく動く嵯峨、彼は真っ直ぐ自分の執務室に入った。机の上にはいつの間にか出ていたコンピュータの端末が置かれていた。嵯峨は執務室にどっかりと腰を落ち着けるとその電源を入れる。
「ゲリラは後方の設備建設に従事させるわけですね」
「まあ、あの連中もいつまでも追いはぎの真似事をさせとくわけには行かないでしょ?」
そう言うと嵯峨は黙々と端末のキーボードを叩き始めた。
「ずいぶん余裕があるんですね」
「余裕?そんなものありませんよ」
一瞬、画面から目を離した嵯峨の瞳はいつものようにどろんとして生気を感じないものだった。そのままその視線はモニターに釘付けになる。そのキーボードの入力速度は異常と思えるほど早かった。本当にこの人物は北天からの書類を読んでから判断しているのか、クリスには疑問だった。
「今、ここを攻撃されたらおしまいなんじゃないですか?」
「ああ、それはないなあ」
嵯峨は今度はモニターを見つめたままで即答した。
「吉田は金をもらって仕事をしてるんでしょ?依頼内容に無いことは絶対しない男だ。まあ、こっちから手を出すまでは動きゃあしませんよ」
キーボードを叩く速度は全く落ちることが無い。
「ですが、攻撃は最大の防御で……」
「腕や名前を売る必要の無い兵隊さんなら絶好のチャンスと見るでしょうね。いくら難民が死のうが勝てば良いわけですから」
淡々と作業を続ける嵯峨。
「だが戦争屋で吉田俊平クラスになると金が払えるクライアントは限られてくる。大手の財閥の民間軍事会社や今回みたいに直接政府と契約をすることになるわけですが、あんまりえぐいことをやれば信用に関わる。あいつも今動くことが得策ではないことぐらいわかっているんじゃないですか?」
嵯峨はキーボードを叩く手を止めると、机の引き出しからタバコの箱を取り出した。
「隊長!」
大きな声とともに乱暴に執務室の扉が開けられる。入ってきたのは楠木だった。
「おい、ノックぐらいしようや」
「そんな悠長なことを言う……」
「大須賀のことだろ」
新しいタバコの箱を開けて一本取り出すと火を点す。クリスが楠木の顔を見ていると彼は泣いていた。戦場でのこの不敵な男の目に浮かんだ涙。それでクリスは一つの命が消えたことを理解した。
「あいつは覚悟していたはずさ。潜入作戦というものはいつだってそうだろ?見つかれば間違いなく殺される。それを覚悟で共和軍に入ったんだ」
「わかってますよ!それは。でも……」
泣いている楠木。鬼の目にも涙と言う言葉がこれほど当てはまる光景をクリスは見たことが無かった。
「じゃあ泣くより仕事してくれよ。明華が難民の最後尾を警戒してるんだ。いい加減帰してやりたいだろ?」
「わかりました!」
楠木はそう言うと敬礼をして執務室を後にする。
「工作員が消されたんですか?」
「まあね」
嵯峨は静かにタバコをふかす。視線が遠くを見るようにさまよっている。
「下河内連隊時代からの子飼いの奴でね。楠木とははじめは相性が悪くて俺もはらはらしてたんだがあの地獄を生き延びたことでお互い分かり合えたんだろうな」
煙は静かに天井の空調に吸い込まれていく。
「吉田少佐の仕業ですか?」
「だろうね。共和軍にはそれほど情報戦に特化したサイボーグは多くない。特に北部基地にはあいつしかいなかったはずだから情報の枝をつけて探りを入れるようなことが出来るのは吉田一人だろうね」
クリスはそこで北部基地で出逢った成田と言う士官を思い出していた。
作品名:遼州戦記 墓守の少女 作家名:橋本 直



