遼州戦記 墓守の少女
そこに現れたのは伊藤だった。彼は懲罰部隊を運んできた少尉から書類を受け取ると静かにそれに目を通す。眼鏡をかけた若い政治局員の腕章をつけた少尉は、時々ぼろ雑巾のような懲罰兵達にさげすむような視線を投げていた。
「同志伊藤!以上二百三十六名。お引渡しします」
「そうか、ご苦労さん」
そう言うと隼はそのまま懲罰兵の固まっているところまで歩き始めた。
「同志、それ以上近づくと危険ですよ」
眼鏡の将校を睨み返した伊藤。
「危険?何でそんなことが言えるんだ?」
一人の兵士が落ちていた石を拾うと伊藤に投げつけた。伊藤は避けることもなくそれを額に受けた。額から一筋の赤い線が口元まで走る。眼鏡の少尉はそれを見ると拳銃を取り出し、その石を投げた階級章を剥ぎ取られた将校服の兵士に銃口を向けようとした。
次の瞬間、政治将校の眼鏡が飛んでいた。それが伊藤の右ストレートによるものだとわかるには少し時間が必要だった。
「こいつ等はうちの部隊の隊員だ!勝手に殺すんじゃねえ!」
眼鏡の少尉は伊藤の啖呵を聞いても伊藤の言葉の意味がいまひとつ理解が出来ていないようだった。周りの兵士達は伊藤の行動にやんやの喝采を浴びせている。懲罰部隊の隊員も、それを真似て周りの政治局員に罵声を浴びせかけ始めた。
「同志!これは一体どういうことだ!」
そう叫んだ眼鏡の将校の襟首を伊藤が掴んで引っ張りあげる。
「おう、若いの。俺はな、十四の時から人民党員なんだ!お前みたいな『にわか』に指図されるいわれはねえんだよ!」
その言葉に少尉は口から流れる血を拭って伊藤をにらみつけながら立ち上がった。
「同志伊藤隼中尉!貴様、このことは党に報告させてもらうからな!」
激高する少尉を押しとどめる政治局員。伊藤も彼の部下の政治局員に囲まれる。彼らは全員腰のホルスターに手をかけて、いつでも北天の兵士とやりあう覚悟は出来ていた。伊藤は部下の肩を叩き、にんまりと笑みを浮かべていた。
「おう、やれるもんならやってみろ!人のふんどしで相撲を取るしかとりえの無い餓鬼に俺の首が取れるのならな!」
眼鏡の少尉はそのまま彼の部下に連れられて車に連れて行かれた。取り囲む兵士達は伊藤に歓声を上げる。そんなところにいつの間にかシャムが現れていた。
「隼、かっこいい!」
「ありがとうな。あとでアンパンもらってきてやるよ」
懲罰兵は歓喜の声をあげ、そのまま伊藤を胴上げしかねない勢いだった。
「やる時はやるんだねえ」
本部から出てきた嵯峨が伊藤の肩に手を伸ばした。
「あいつ等は誰と戦争してるかわかっちゃいないんですよ。では!同志諸君!整列したまえ!」
片腕だけで心を動かされた懲罰兵が整列を始めた。彼らを運んできたトラックから降りるときの動きとはまるで違う俊敏な反応だった。
「では、隊長。訓示を」
伊藤はすばやく身を引いて嵯峨にその場を任せた。そこで嵯峨のまとっている空気が一変する。
『やはり王侯貴族の風格という奴か』
クリスの思いを受けたように明らかに存在感を感じさせるようにしっかりと大地に立って新しい部下達ににらみを効かせる嵯峨。
「俺は貴様等が何のために階級を剥奪されたかは問わない。問うつもりも無い。また、もし共に戦うつもりが無いのなら西モスレム経路で東和に亡命する手段も整えてある。戦う気の無いものを引きとどめるほど俺は酔狂じゃない」
亡命と言う言葉を聞くと何人かの兵士が少しばかり顔をこわばらせているのをクリスは見逃さなかった。
「我等の目的は一つだ。地球諸国の傀儡であり、民衆に恐怖を与え今のこの国の状況を作り出したゴンザレス政権の打倒である。私はそのために人民政府に協力することを決意した。しかし、これは俺の勝手な決意だ。志が違うものならば、去ってくれても俺はそいつを咎めることもしない。それも一つの生き方だ」
そう言うと再び嵯峨は懲罰兵を眺めた。黙って彼らは嵯峨の言葉を聞いていた。
「もし、この中に俺と目的を同じくしているものがいたら残れ。その命、俺は無駄には使わん!」
その言葉に部隊員が歓声を上げる。懲罰兵の中、先頭に立っていた先ほど伊藤に石を投げた将校が敬礼を返した。次々と懲罰兵達は嵯峨に敬礼を送った。嵯峨はそれに返すように敬礼をすると本部へと消えていった。
「各員以前の階級を申告しろ!直ちに被服の支給を始める!」
伊藤はそう叫ぶと部下達に指示を与え始めた。
伊藤の部下達は素早く本部からテーブルを持ち出し、並べていく様を見つめていた。懲罰兵達も感心する手際で瞬く間に支給の受付が設営され、伊藤達が被服の支給を開始した。それを感心した顔で眺めてしまうクリス。パトロール部隊に同行していたハワードも戻ってきて軍服を支給されている兵士達をカメラに収める。伊藤もそれそ咎めることもしない。
「支給を受けたものはしばらく整列していろ、剥奪前の階級を申告してもらう!」
伊藤の言葉に目を輝かす懲罰兵達。
「伊藤中尉、全員参戦すると思いますか?」
先ほどからたまっていた質問をクリスはぶつけてみた。
「それは無いでしょう」
その言葉に先ほど伊藤に石を投げた将校が近づいてきた。
「いえ!我等の意思は決まりました。この戦いを貫徹……」
男の言葉に思わず嵯峨の顔を見る。
「そう言うのが隊長が嫌いな精神論なんだよ」
伊藤は低い声でその将校をたしなめる。
「一時の高揚感で正義を振りかざすのは止めておいた方が良い。結果はつまらないぞ」
そう言う姿は政治将校とは思えない。クリスはそう見ていた。高揚していた懲罰部隊の腕章をつけた将校も静かに立ち去ろうとしていた。
「ああ、そうだった。君の姓名と階級を聞いていなかったな」
「イ・ソンボン少尉です。医師として参戦していました」
「お医者さんですか。うちはそっちの人材足りなくてね。小学校の跡地が野戦病院にする予定ですから、たぶんそちらの勤務になるでしょう」
そう言うと伊藤は再び書類に目を通し始めた。イはそれが少しばかり不満だというようにその場から懲罰兵がたむろしているところへと去った。
「そう言えばシャムは……」
伊藤がそう言ったのでクリスは周りを見渡した。懲罰兵の群れの中、一際小さい黒い帽子がちらちらと見える。クリスはそのままシャムのほうへと歩いていった。
シャムと熊太郎は懲罰兵達に囲まれていた。
「嬢ちゃん。あんたもここの隊員なのかね」
「そうだよ!私は騎士だからみんなを守らないといけないの」
「偉いんだなあ、嬢ちゃんは」
そう言われて照れているシャム。熊太郎は頭を撫でられながら甘い声で鳴いている。
「シャムちゃん。また友達が増えたな」
クリスの言葉に嬉しそうに頷くシャムがそこにいた。
「すいません!ホプキンスさん」
シャムと懲罰兵が戯れる様子を眺めていたクリスに呼びかける女性の声が届いた。振り返ったクリスの前にパイロットスーツを着た女性の姿が飛び込んでくる。
「隊長が呼んでましたよ!」
そう伝えに来たのはセニアだった。淡い青い髪をなびかせてそれだけ言うとそのまま走って格納庫の方に向かう。
「相変わらず愛想が無いな」
作品名:遼州戦記 墓守の少女 作家名:橋本 直