遼州戦記 墓守の少女
圧倒的な遼北の物量を前に、敗走していく胡州の兵士の写真はクリスも何度も見ていた。胡州から仕掛けた戦いだった遼南戦線は見通しの甘さと胡州の疲弊振りを銀河に知らしめるだけの戦いだった。
初期の時点でアサルト・モジュールなどの機動兵器の不足がまず胡州の作戦本部の意図を裏切ることになった。作戦立案時の三分の一の数のアサルト・モジュールはほとんどが旧式化していた九七式だった。その紙の様な装甲で動きは鈍いが重武装で知られるロシア製のアサルト・モジュールをそろえていた遼北軍を相手にするのははじめから無理な話だった。すぐに遼北の要請で駆けつけた西モスレムの機動部隊は胡州・遼南同盟軍の横腹に襲い掛かり、宇宙へ上がる基地はアサルト・モジュールを使った大規模な電撃戦で瞬時に陥落した。
彼らが無事に胡州の勢力圏へと帰ろうと思えば、遼南帝国ムジャンタ・ムスガ帝を退位に追い込んだ米軍とゴンザレス政権同盟軍への投降以外に手はなかった。遼北による捕虜の非道な扱いの噂は戦場に鳴り響いており、反枢軸レジスタンス勢力による敗残兵狩りは凄惨を極めていた。さらにそんな彼らの前に延々数千キロにわたって続く熱帯雨林が立ちはだかった。指揮命令系統はずたずたにされ、補給など当てに出来ない泥沼の中、彼らは南に向かって敗走を続けた。
嵯峨の指揮していた下河内混成特機連隊も例外ではなかった。彼らは殿として脱落兵を拾いながら南を目指した。当時の胡州陸軍部隊の敗走する姿は胡州軍に投降を呼びかけるビラを作成する為、民間人を装い彼らに近づいた地球側の特殊潜行部隊に撮影されていた。
兵士の多くが痩せこけた頬とぎらぎらした眼光で弾が尽きて槍の代わりにしかならないだろう自動小銃を構えて膝まで泥につかり歩いている。その後ろには瀕死の戦友を担架に乗せて疲れたように進む衛生兵。宇宙に人類が進出したと言うのにそこにあるのは昔ながらの敗残兵の姿だった。
文献を見ても蚊を媒介とする熱病が流行し、生水を飲んだものは激しい下痢で体力を失い倒れていったと言う記述ばかりが目立つ戦いだったと言う。住民は遼北、アメリカの工作員が指導したゲリラとして彼らに襲い掛かるため昼間はジャングルの奥で動くことも出来ずに、重症の患者を連れて行くかどうかを迷う指揮官が多かったと伝えられている。置いていくとなると負傷者には一発の拳銃弾と拳銃が手渡されたと言う。
その地獄から帰還した歴戦の指揮官。しかし、そんな面影など今目の前でカレーうどんを食べ続けている嵯峨には見て取ることができなかった。貴族上がりとも思いがたいずるずると音を立てて勢い良くうどんをすすりこむ。
「食べないんですか?」
嵯峨はそう言ってクリスとハワードを眺めるが、すぐに切り替えたようにうどんにカレーの汁をなじませながら二人の前のうどんを見ている。
「いえ、やはりあなたでも昔のことを思い出すんですね」
クリスの言葉に一度にやりと笑ってからどんぶりに箸を向ける嵯峨。その表情がゆがんだ笑みに満たされているのが奇妙でそして悲しくもあるようにクリスには見えた。
「まあ、私も人間ですから。思い出すことだってありますよ。ここの土地には因縁がある。特に私には特別でね」
そう言うと今度は隣のサラダを口に掻きこみ始める。クリスもそれにあわせて慣れない箸でうどんを口に運んだ。
「ああ、そう言えば攻略地点を知らせてなかったですね」
呆れるようなスピードで隊長特権らしいサラダを口に掻き込んだ嵯峨はそう切り出した。ぼんやりしていたクリスを見てため息をついた嵯峨は胡州の最上流の貴族の出だと言うのにまるで餌のようにサラダを食い尽くした。
「攻略と言うか、上手くいけば戦闘をせずに行けるところなんですがね。この夷泉の南にある兼行峠の向こう側に村が一つあるんですよ」
嵯峨は落ち着いたというようにほうじ茶に手を伸ばす。細かい地名を図も無く教えられてぼんやりと話を聞くことしか出来ないクリスとハワード。そんな彼等を気にする様子も無く嵯峨は言葉を続ける。
「まあ、かなり前に廃村になっているんですが、そこならこれから先の北兼台地の鉱山施設制圧作戦の拠点になると思いましてね」
そのままほうじ茶を一息で飲み干す嵯峨。クリスもハワードもまだカレーうどんを半分以上残していた。
「そこを橋頭堡にするわけですね」
クリスの言葉を聞くと嵯峨は胸のポケットに入れたタバコの箱を取り出し、手の中でくるくると回して見せた。
「まあそう言うことです」
嵯峨の頭が食堂の入り口に向いた。クリスが振り向くとそこには先日会議室で見た胡州浪人に見える眼鏡をかけた士官がヘルメットを抱えて立っていた。
「遠藤!ちょっと待ってろ。ハワードさん、ドライバーが来ましたよ」
遠藤と呼ばれた少尉はハワードの隣までやってくると敬礼した。いかにもギクシャクとした態度、胡州で訓練を受けた士官らしく視線は厳しい。
「ハワード・バスさんですね。第一機械化中隊の遠藤明少尉と言います」
ハワードを見上げる青年に握手を求めて手を伸ばす。遠藤はぎこちなく大きなハワードの手を握り返すとようやく笑みを浮かべた。
「ずいぶんとお若い方ですね。出身は胡州ですか?」
流暢なハワードの日本語に戸惑ったような表情を浮かべた後、遠藤と言う士官は首を横に振った。
「いえ、遼南ですよ。北兼軍閥の生え抜きですから」
頷きながらハワードは椅子に腰掛ける。そしてそのままクリスよりも上手く箸を使ってうどんを食べていく。遠藤はそのままハワードの脇に立ってその様子をじっと眺めていた。
「おいおいおい。そんなに見つめたら食事が出来なくなるじゃないか。とりあえずこれでも飲め」
そう言うと嵯峨は遠藤にほうじ茶を注いでやった。遠藤はそのままハワードの隣に座るとほうじ茶を口に含んだ。
「遠藤少尉。いい写真は撮れそうかね」
ハワードはサラダのトマトを口に入れながらそう尋ねる。
「それはどうでしょうか……それは私の仕事ではありませんから」
きっぱりとそう答える遠藤にハワードは手を広げて見せた。それを見て渋い顔をする嵯峨。
「うちの宣伝になるかもしれないんだぜ。もうちょっと色をつけた話でもしろよ」
嵯峨はそう言うとクリス達が食事を終えたのを確認した。嵯峨に向けられた目で合図されたと言うように少尉が立ち上がる。
「それじゃあ先に行ってるぜ」
ハワードはそう言うとジュラルミンのカメラケースを肩にかけて遠藤のあとを追って食堂を後にした。
「そう言えば嵯峨中佐は戦闘は無いようなことをおっしゃってましたね」
ほうじ茶を口に運びながらクリスはこの言葉に嵯峨がどう反応するのかを確かめようとした。
「そんなこと言ったっけかなあ。まあ、現状としてさっき言った目的地とその経路には敵影が無いのは事実ですがね」
嵯峨は笑いながら立ち上がる。そしてそのままタバコを口にくわえて手にしたトレーをカウンターに運んだ。
「戦場では希望的観測は命取りですから。まあ今のうちに楽観できるところはしておいた方がいいと言うのが私の持論ですので」
そう言うと嵯峨はおもちゃにしていた口のタバコにようやく火をつけた。
作品名:遼州戦記 墓守の少女 作家名:橋本 直