よしよし申すまじ
しかし、「飯じゃ飯じゃ腹ぁ減った」と、地を揺るがすような恐ろしい声で叫ぶ女は、男の嘆願なんぞ聞く耳を持たないで。
いっそ清清しいぐらいばっさりと首を切り落としてしまったのでした。
先ほどとは比べ物にならないぐらい大量の血が、切り口から溢れ、あっという間に真新しい畳を汚していきます。
体の一機能を欠き、力なく倒れて痙攣する亡骸。それは、刀の私が見ても、思わず背筋が寒くなってしまうぐらい、恐ろしいものでしたのに。
女は刀(抜かず一閃じゃあございませんよ!)を放り投げると、まずは死体の肩に噛み付いたのでした。
肌が、肉が、腱が、千切れる音がし、いとも簡単に腕が取れてしまいます。
人間の体は案外脆いものだとは知っていましたが、まさかこれほどまでだったとは、と、私は場違いにも感心してしまいました。
次に女はむっしゃむっしゃと腕を貪り食い始めます。
べき、ばき、ぼき。恐らくこれは骨を噛み砕く音。
ズズズという下品な音は、血を吸っているせいで生じたのでしょう。
時折、それらの音に混じって
「あぁ旨い。生きた心地がする。米が無くても肉を食べればよかったとはのぅ……」とても女人の物とは思えない、薄気味悪い声が聞こえてきます。
金糸に彩られた白地の内掛けを身に纏った婦人が、悪鬼のように人体を貪る姿は、この世のもので無いかと思うぐらい恐ろしく。さながら地獄絵図のよう。
そんな彼女が前触れも無しに私の方に振り向いた時には、ありもしない心臓が跳ね上がったと錯覚してしまうぐらい驚いたのですが。
「ひぃい!」
背後から甲高い悲鳴が上がります。
口周りを血で汚し、般若の形相で睨んでいる女の視線の先。そこには、真っ青な顔をしてへたり込んでいる少女がいたのでした。
女には到底及ばないけども、それなりに着飾った格好。おそらく少女は腰元(=女召使)で、悲鳴と物音が気になり部屋を訪れたのでしょうか。
それは、今になっては知る由も無いのですけども。
「あ……あぁあ……」
腰元が背を向けて逃げ出すよりも早く。女は随分と短くなった腕を乱雑に投げ捨て、駆け出します。
上流階級の婦人らしく、小袖を何枚にも重ね着しているとは思えないぐらい迅速な動き。
女はあっという間に追いつくと、少女の髪を力いっぱい掴みました。
そして、腰元の足が止まるやいなや、のけぞり露になった華奢な喉元に喰らい付いたのです。
甲高い悲鳴が空を裂きます。
「誰か、誰か助け……」
掠れた哀願の声も空しく……懸命に何かを掴もうとする手からは力が抜けていって……。
がっくりと腰元は息絶えたのでした。
女が、一つの肉塊と化した腰元から口を離し、蹴り飛ばしたのと、
「何だ今の声は」
「殿、いかがなさった!」
「大丈夫ですか?」
一連の騒動を聞きつけやってきた武人や腰元達が、揃いに揃ってヒッと悲鳴を上げたのはほぼ同時でした。
「腹ぁ減ったなぁ……」
召し物を紅に染め、うつろな目で口調でゆらりと佇む女。例えるならば、羅刹如か鬼か化け物か幽霊か。
少なくとも人間の形をした人間ではない何かがそこに立っていたのでした。
武人の一人が、わなわなと体を震わせながら叫びます。
「ご乱心!猛姫様ご乱心じゃーーー!」
女、否、猛姫は、獣のような鳴き声を挙げて、大声を出した武人に噛み付きました。
別の武士が仲間を助けようとして、鞘から真剣を取り出そうとしますが。姫はそれを奪うと逆に武士を突き刺してしまいます。
悲鳴を上げ逃げ惑う腰元たちを次々と切り伏せ、異常な物音にまた人が集まり……。
二番目の犠牲者である少女が突き飛ばされた拍子に、灯台にぶつかり、それを倒してしまったことに。
そして油がこぼれ、火が畳に燃え移ってしまったことに誰一人として気付かないまま。
城内の者どもは、一人また一人と、姫の毒牙にかかって息絶えていくのでした。
目まぐるしく私の視界は変わります。
猛姫が城中の人間を次々と殺していく姿。あっという間に炎に包まれる城。それを訳が分からないといった風に見上げる敵側の足軽たち!
何ということでしょう何ということでしょう!
満鷹様の隣にいる猛姫様がまさか、殺人の上人食などという、おぞましい大罪を、犯していただなんて……。
何ということなのでしょう!!
* * *
「猛。どうだ昨晩は。よく眠れたか?」
聞きなれた心地よい満鷹様のお声を聞いて、私ははっと目を覚ましました。
いつもの中庭。私の定位置である満鷹様のお腰。人間の死骸も、炎も見当たりません。
……では、先ほどまで視ていたあれらの景色は一体なんだったのでしょうか……?
「えぇ。いつもよりぐっすり寝られたような気がします。そうそう、満鷹様。私昨晩とても懐かしい夢を見たのですよ」
猛姫様の声にも特に変わったところは見受けられません。やはり、全裸の姫様も、食人の姫様もきっと私の妄想(もしくは夢)の産物だったのでしょうか。
「何だ気になるな。どんな夢だったのだ?」
「うふふ……。それは秘密ですわ」
「案外ケチだなぁ。猛は!」
「あら、そうですかしら……」
お二人は笑いあいます。平和で平穏なその声を聞いていると、なんだか、不気味な物を見ていた事が恥ずかしくなってきました。
早く忘れてしまおう……と、思ったその時です。
「そういえば、満鷹様はいつもその刀を腰に挿していますね。それはとても大事なものなのですか?」
猛姫様の顔がずいと私の方へお顔をお近づけになりました。咄嗟の事なので、目を背ける暇がありませんでした。
抜かず一閃が、姫様のお顔を真正面から拝見したのは、これが初めてのこと。
猛姫の美貌は風説どおり、絵にも文にも表すことが出来ないぐらいの美しさだったのですが。
……不思議にも私は、その中におぞましさを感じてしまいました。
猛姫様の美貌はまるで太陽のよう。直視できないほど美しい。
しかし、太陽を直に視ることができないのは、美しいからではなく、光が瞳に突き刺さって痛いから。
だから直に視る事が出来ないのです。
「これは父より賜いし朝比奈家に伝わる宝刀でな。その名も抜かず一閃!」
「抜かず……一閃ですか?また珍妙な名前ですね」
彼女の長い睫毛に縁取られた瞳は、大層濁っておいででした。
死んだ魚のような、生気の無い目なのです。
戦場においては英雄だったのだけども、やっている事は只の人殺しとさして変わらない猪武者の瞳と同じ瞳でした。
じっと見続けていると、底なしの井戸を覗き込んでいるような錯覚を起こして。
思わずぞっとして、すぐに目線を違う方に向けてしまう、恐ろしい色を湛えているのです。
もしや、我々が彼女を直視できないのは、『美しい』からではなく、『おぞましい』く生理的に視ていられないから。
だから、本能的に目を背けてしまうのではないのでしょうか……。
「これはな、大事になったときにだけ鞘から抜くよう父にきつく言われているのだ」
「抜いてしまうと……どうなるのでしょうか?」
「毘沙門天の加護により、空から火矢が雨霰と降り注ぐそうなのだ!」