よしよし申すまじ
「猛や。猛。もう何も言わなくていいんだよ。これから、これからもっともっと幸せになってほしい。いや、絶対に猛は私が幸せにするんだ」
私は、満鷹様が小菊丸と幼名で呼ばれていた幼き時より、彼をすぐ間近で見てきたのですが。断言いたしましょう。
満鷹様ほど、心優しい方はこの世にはおりません……と。
今は乱世です。大名たちは虎視眈々とたった一つしかない天下の座を争い、その部下たちは隙あらば自分が主に成り代わろうという下克上の風潮が日本全土に漂っています。
そんな暗黒の時代に生きながらも、満鷹様は不思議なぐらい穏やかで、お優しく。ともすれば、武将に向いていないと思えるぐらいでした。
周囲が無駄な事と諌めるのにも関わらず翼の折れた小鳥を看病したり。
お父上に妙な同情をかけるなと殴られ蹴られても老いた軍馬を労ったりと。満鷹様の慈悲深い行動は枚挙に暇が無いほどです。
私は、そのような満鷹様がとても好ましく思っているのでした。
「あぁ、誓うさ、誓うとも」
満鷹様の言葉は、猛姫様に向かっていっているよりは、まるで、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえました。
「どうせ私は胡麻粒と呼ばれるぐらい小さな国の主だもの。天下には程遠いのは十分承知だ。
それより、猛と一緒に政から引っ込んで、楽しく暮らす方がいいに違いない……なぁ、猛」
まるで父親が赤ん坊をあやすかのように、うんと優しい声音で語り掛けました。
「お前だって、二度と戦に巻き込まれるのは御免だろう?」
びくりと、猛姫様の体がこわばります。
「……私、私は……大名の娘としてなら、いつでもこの命を棄てる覚悟は出来ております。夫が天下を取りたいのでしたら、それを支えるのも妻としての役目。
命とあらば喜んで腹を切りましょう。ただ、一個人、猛としては……嫌でございまする。あのように、目の前で次々と人が死んでいくのをみるのは」
静寂が、部屋一杯を支配します。ひゅるりと、開け放した障子から風が通り抜け、いささか肌寒さを感じました。
私は満鷹様の腰に下がっている状態ですので、主が、今、どのような顔をしているのかを視るのは叶いません。
目の前にいらっしゃる猛姫様のお顔はあまりにも美しすぎて、直視できないほどですし。
第一、日が山の向こうに沈んでしまった今では、薄暗くて、彼女の着物の柄でさえ鮮明に見えない有様でございます。
しかし、静けさの中にどこかしら感じる事のできる温かい空気が、お二人の今のお気持ちを切に物語っていました。
心に深い傷を負った猛姫様に、慈悲深い満鷹様。双方の心は、今ぴったりと一致したようでございます。
「……そろそろ、奥に入るか。夜風が、きつくなってきたな」
「……はい」
優しく奥方様の肩を抱き、その場を後にする満鷹様。彼は、空いている方の手で私の柄を掴むと、ぎゅっと握り締めました。
その手の力の強さから、朝比奈家の家宝と呼ばれる私に対して何かを宣誓したのでしょう。
物を考える以外に取り立てて目立った能力が無い私ですから、満鷹様が具体的にどういう事を誓ったのかは知る術を持ちません。
ただ、憶測で言うならば『猛は、絶対私が幸せにしてみせる!この抜かず一閃の霊力にかけて!』という感じでしょうか。
あぁ、馬鹿馬鹿しい!
頼ってくださるのは心底嬉しいのですが、勝手に誓ってもらっては困ります。例え大事に至ったとしても、そもそも抜かず一閃はただの刀。
持ち主が手に取り敵に向かって振るわない限りは、手も足も出ないのですから。
……私の前の持ち主、今は亡き満高様のお父上が生前繰り返し言われていたことによりますと。
『抜かず一閃は源平合戦(!)の折に某という名の源氏側の武将が、勝利を祈願し神に捧げた太刀である』
『それが時を経て再び穢土に舞い降り、偶然手にした』そうで。
『真剣を鞘から取り出したら最後、毘沙門天の加護により空からは炎を纏った矢が雨あられの如く降り注ぐ』ゆえに、
『まさに絶対絶命という極限に至らない限り使ってはいけない』のだと。
だから『抜かず一閃という名が付いた』。
――……私は覚えておりますよ。前殿が幼い頃、初陣で落馬した地点に、たまたま絶命した武士がいて。
貧相な鎧姿にもかかわらず立派な刀を挿しているものだから、抜き取って自分のものにしてしまって。
無銘であるのをいい事に、勝手に『抜かず一閃』と名づけて、私の出所を偽装したのに。よくもまぁ、そんな嘘八百をぬけぬけと!
今でも思い出すと、腹が立ちます!
しかし抜かず一閃が霊力を持つ刀と信じることで、少しでも満鷹様のお心が軽くなるのでしたら。
このままでも別にいいと思えてしまうのです。何もお力添えは出来ないのですけどもね!
奥の部屋に到着すると、沢山の家臣たちと、膳の上に乗せたほかほか湯気をたてる飯が二人を出迎えてくれました。
満鷹様は胡坐をかいて座ると、(猛姫様は、彼のすぐ隣に腰を落ち着かせました)私を腰から外し、横に置きます。
これから、食事が始まります。そして、湯浴みをし、寝るといった人間の生理的欲求を満たすため、毎日毎日繰り返される習慣が目の前で次々と展開されるわけですが。
これら一連の動きは正直、今まで飽きるほど見せ付けられているため、私にとっては非常に退屈極まりないのです。なので、少々睡眠をとることにしましょうか。
無防備な主君の湯浴みの姿や寝顔を見るほど、趣味は悪くありませんからね。抜かず一閃は。
……ご夫婦の閨の中を覗いてみたい、と思ったことは無いと言うと嘘になりますけども……。
* * *
冷たい。
冷たい。
冷たい。
……おかしい。私は、満鷹様がお休みなられる時は、彼の枕元に置かれるのが常だというのに。
室内にいるはずなのに、どうして先ほどからひっきりなしに、冷気を帯びた風が身体を舐めるのでしょうか。こんな事は今まで一度も無かったはずなのに。
……私は緩やかに眼(例えです)を開けました。覚醒しきっていない頭のせいか、最初は目の前の景色はもやもやして不鮮明な物でしたが。
次第に意識が明瞭になっていくにつれ、徐々に霞が晴れていくように周囲が露になってきました。
空にぽっかりと浮かぶ月。藍色に染まった木々。
彼方まで続く道は、様々な職種の人間たちが住む街に、そして一際高い丘に座する朝比奈家の居城までに繋がっておりまして。
そこまで視て、私は漸く気付いたのです。自身が今いる場所は満鷹様の閨ではなく、それから遠く離れた場所である事に。
一体これはどういうことなのでしょう。前殿につられ、敵の不意を付くために夜の行軍に付き合ったことは二三度ございますが。今は戦なんてしておりませんし……。
「さて何とせうぞ 一目見し面影が 身を離れぬ」
歌声がすぐ間近で聞こえてきます。(これは最近巷で流行っている小唄でした)
お恥ずかしい話ですが、この時になって初めて、私は誰かの肩に負われている気がついたのでした。どうりで、先ほどからかすかに体が上下するはずです。
月明かりに照らされて、夜闇に白く浮かび上がる背中。鮮やかな黒髪。こそばゆくなってしまう甘い香り。