遼州戦記 保安隊日乗 4
そのカードは1億円の手形。恐らくこの様子を盗撮しているだろう吉田達はどよめいていることだろうと想像すると、要には苦い笑みが浮かぶ。
「でも……こんなことをしていただくことは……」
「私と三郎さんが付き合っていたのは事実ですから」
そう言って笑顔を作っているが、老人はただテーブルの上のカードをさらに押し出すために手を伸ばすだけだった。
「ですから……私としても」
「じゃあ、これを貰えば息子が帰ってくるんですか?」
老人の言葉に要は言葉が詰まった。要にははじめての経験だが、叔父の嵯峨の前に詰め寄る彼の部下の親達の姿でいつか自分も同じことを言われるだろうと思っていた言葉。実際にそれをぶつけられて初めて要は目が覚めたような気がした。
「知っていますよ。警察の人が来てアイツが何をしていたかはわかっていますから。じゃあなおさらこれはいただけません。人様のものは盗むな。商売は信用が大事だ。弱いものの気持ちを分かれ。いろんなことを教えましたが奴は一つだって守れないままなりばかりでかくなって……」
そう言う老人の目に涙が浮かぶ。要もようやく諦めてカードに手を添えて自分の手元に寄せた。
「アイツのしたことが許されないことだとはわかっています。命で償うような悪いことだって事も……でも奴はワシのたった一人の息子なのも事実ですから……」
老人が似合わない白いジャケットの袖で涙を拭う。要は何も言えないまま黙って老人を見つめていた。
「わかりました。これは受け取れないんですね」
要の言葉に静かに老人は頷いた。ようやく気持ちを切り替えたように唇をかみ締めたまま無理のある笑みを浮かべる老人。
「でも一つだけ……一つだけ教えていただけませんか?」
遠慮がちに老人が口を開いた。ためらいがちに要も頷く。
「アイツは死ぬ前の日にうちの店に来て……突然、『俺は幸せなのかもしれないな』なんて言ったんですよ。アイツが……明らかに死ぬ前の数日。あなたと再会してからアイツは表情が変わったんです。そんな奴にとって……あなたにとって……あの馬鹿息子はどんな存在になりますか?」
老人の視線が痛く要に突き刺さった。要は黙ったまましばらく志村三郎という存在について考えてみた。
要はしばらく沈黙した。
三郎と過ごした東都での工作活動任務中の日々。思い出しても割り切ることが出来るほど軽くはなかった。身体を任せたからと言うわけではなく、非正規部隊の隊員として任務遂行の為に近づいた野心に燃えていた三郎。だが、その任務が終わっても要は三郎と会う日々を過ごしていた。
お互い会う必要など無かったのに、いつの間にか当然のように二人は同じときを過ごした。東都の租界でのシンジケート同士の抗争が激化し、同盟軍の部隊が侵攻した。押されていた東都警察の包囲網が完成し、同盟機構の司法局員が駐留するようになって胡州軍は東都の権益を諦めて彼女にも帰国命令が出た。その時もぼんやりとチンピラ扱いされていた境遇から抜け出して喜ぶ三郎のことを考えていたのは確かだった。
「確かに……東都といえば、まずアイツを思い出します」
弱弱しくしか吐き出せない言葉に要は自分でも驚いていた。
「この街に再びやってきて、アイツと会おうと思ったこともあります……」
ここまで言葉を繋げてようやく要にも心の余裕が出来た。視線を上げると涙を浮かべる老人が要を見つめていた。
「でも……もう会えませんでした。何も再びここに来た時の身分が正規部隊の隊員だったからと言うわけじゃないんです。アイツがあのまま変わらなかった。むしろ以前は反吐が出ると言った組織幹部に成り上がったのが裏切られたと思っていたのは事実ですけど……でも……もう終わったことだったので……」
「そうでしょう。それでよかったんですよ」
老人の目は優しく要を見つめていた。先ほどまで息子を殺された被害者の目だったそれが、優しく要のことを見守っている父親の目に変わっていた。
「今回の出来事もアイツの自業自得ですよ。ただ、アイツのことをこれからも心にかけてくれるのなら……おかしい話ですね。忘れろと言ったり忘れるなと言ったり。年をとるとどうにも愚痴っぽくなってしまって……。今のあなたは立派な将校さんだ。本当はアイツのことなんか忘れてもらいたいと言うのに……親馬鹿って奴ですか」
力なく笑う老人に要も無理に笑顔を作って見せる。老人は取って置きの白いジャケットからハンカチを出して涙を拭った。
「そうだ!私は商売人ですから。この前……東和政府から租界を出るための居住許可が出たんですよ」
租界から東都に渡るには多種多様な事務手続きが必要だった。要もその手続きに2〜3年の時間がかかることを知っていた。我慢していた涙腺の疼きを笑顔が凌駕したおかげで少しばかり安心しながら頷く。
「それで、実は新港に弟夫婦がいましてね。店舗の建物だけあるんだがって話が来てまして……」
「お店、移るんですね」
ようやく救われたような話を聞いた要は溜まった涙を素早くふき取った。
「ええ、新港ですから。確か……保安隊の運用艦は新港を母港にしていましたよね?」
老人もようやくさっぱりとした表情で要に笑いかけてくる。要もまたそんな老人を見てようやく落ち込んだ気持ちから救われる気がした。
「じゃあ食べに行っても良いですよね」
「もちろんですよ!それにそちらの技術者さん達が新港にもいるそうじゃないですか?」
笑顔の老人が言葉を飲み込んだのは、こつりと何かが当たってテーブルが動いたからだった。要はつい反射で腰の拳銃に手を伸ばした。
再び机が動く。そして開け放たれたカーテンの下になにか丸いものが動いているのが目に入った。
「あれ、何でしょうかね……」
老人も気がついたように日向に動く丸みを帯びた物体に目を向けていた。
「駄目!要ちゃん!駄目!」
ドアが突然開き、驚きの表情を浮かべていた要の目に、小さなシャムが映った。そして誠やカウラ、アイシャまでもが慌てた表情で飛び込んできて銃に手をかけていた要を取り押さえにかかる。
「なんだよ!何があった!」
まとわり付く誠の頭がカウラに押しのけられて胸に当たったので、とりあえず要は誠の首筋に肘鉄を叩き込んだ。
「あ!誠ちゃん!」
のされた誠に手を伸ばすアイシャ。拳銃を取り上げて安心したようにため息をつくカウラを見て、要はその襟首を掴んで引き寄せる。
「おい、説明しろ。何が駄目なんだ?どうしてここにお前等が乱入して来るんだ?」
だがカウラは視線を合わせずに窓の方に向かったシャムを見つめていた。
「怖くないよ。大丈夫……」
要から見てテーブルが影になって見えないところでシャムが何かと話をしていた。それに合わせてテーブルの隣の球状の何かが揺れている。
「ほう、これは大きな亀ですね」
老人は微笑むとシャムのところに歩いていく。
「亀?」
要の体から力が抜けた。そのまま座ってカウラとアイシャを見つめる。
「銃はいらないわよね。見ての通りシャムちゃんが飼ってる亀さんよ」
「はあ?」
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 4 作家名:橋本 直