遼州戦記 保安隊日乗 3
誠はそう言うとそのまま階段を上る。楓も渡辺も相変わらず黙って誠のあとに続いた。シャムはニヤニヤしながらその後ろを行く。
「ここが更衣室です……」
誠が指を差すのにあわせて視線を向ける楓。誠はとりあえず黙っていようと思いながら廊下を右に折れた。
「ここが姉上の執務室か」
楓が口を開いたのは彼女の双子の姉である嵯峨茜警視正が常駐している遼州同盟法術犯罪特捜本部の部屋だった。
「挨拶していきますか?」
こわごわ尋ねる誠に首を振り、そのまま歩き出す楓。誠はそのまま彼女の前に出て隣のセキュリティーシステムを常備したコンピュータルームを指差すが、楓はまったく関心も無いというようにそのまま嵯峨がいる隊長室の前に立った。
そのまま誠を無視してノックする楓。
「おう、いいぞ」
嵯峨の声を聞くと楓と渡辺は当然のようにドアを開けて入る。
「げ!」
要の声に誠は部屋を覗き込んだ。そして楓の顔がそれまでの退屈したような無表情から感激に満ちたものへと変わっているのを見つけた。楓が要の胸に手を伸ばそうとするのを要は楓の頬に平手を食らわすことでかわした。
「テメエ!何しやがんだ」
そう叫ぶ要に楓は打たれた頬を押さえながら歓喜に満ちた表情を浮かべる。
「この痛み、やはり要お姉さまなんですね!」
その言葉に背筋に寒いものが走る誠。そして要の隣に立っていたカウラは呆然とし、アイシャはにんまりと笑みを浮かべている。
そんな人々の視線を気にしてなどいないというように、楓はそのまま要の手を握り締めるとひきつけられるように要の胸に飛び込もうとする。
「おい!やめろ!気持ち悪りい!」
「ああ、お姉さま!もっと罵ってください!いけない僕を!さあ!」
その楓の言葉に嵯峨は頭を抱えていた。カウラはそんな嵯峨を汚いものを見るような視線で見つめている。要は自分の行動がただ楓を喜ばせるだけと悟ったように、口元を引きつらせながら誠に助けを求めるように視線を送っていた。
誠もさすがにアブノーマルな雰囲気をたぎらせる楓を見て、すぐに彼女の製造責任のある嵯峨へと視線を向けた。泣きそうな顔で黙っている嵯峨。それを察したようにアイシャが楓に向き直った。
「嵯峨楓少佐!自分は……」
「アイシャ・クラウゼ少佐だな。父上から話は聞いている」
そう言いながらすぐさま先ほどシャムに対して見せたすばやい手の動きがアイシャの胸元に向かう。アイシャはさらりと胸の輪郭をなぞるように手を走らせる楓を見つめたままにやりと笑った。その様子を浮かない顔で見つめるカウラ。
「それでは私がご案内しましょう。それと……警視正!」
アイシャが笑顔でドアのところに立っていたの茜に視線を向ける。明らかに不愉快そうな表情でこめかみに青筋を浮かべながら妹を見つめている。
「姉上!お久しぶりです!」
笑みを浮かべながら敬礼する楓。一方茜はしぶしぶ敬礼をしてそのまま隊長室に入ってくる。
「楓さん、言っておきますがここは東和ですからね。それに今のあなたは嵯峨家当主でもあるのですから。その自覚をお持ちになって行動してくださいね」
棘のある茜の言葉に喜びをみなぎらせた表情でアイシャに案内されて渡辺を連れて出て行く楓。廊下に響く楓のうれしそうな声を上げる楓をアイシャがなだめている声が聞こえた。
「叔父貴!なんであの変態がうちに配属なんだ?理由言え!半殺しぐらいで勘弁してやるからとっとと言え!」
思い切り机を叩いてまくし立てる要。そんな彼女もただ涙目で見上げてくる嵯峨の表情に力なくこぶしを誠の腹に叩き込んだ。息が止まって前のめりになる誠。手を出して介抱するカウラもじっと嵯峨の表情を伺っている。二人に共通するのは死んだ魚のような視線だった。
「そんな目で見ないでくれよ。俺もできればこの事態は避けたかったんだけどな……」
そう言うと書類の束を脇机から取り出す嵯峨。表紙に顔写真と経歴が載っているのがようやく呼吸を整えた誠にも見て取れた。
「うちは失敗の許されない部隊だ。まあどこもそうだが長々とした戦略やリカバリーしてくれる補助部隊も無いんだからな」
そう言いながら冊子に手をやる嵯峨。突然まじめな顔になる彼に要やカウラも黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「となればだ、どうしたって人選には限定がついてくる。それなりに実績のある人材で法術適正があってしかもうちに来てくれるとなるとメンバーの数は知れてるわけだ。しかも来年からは西モスレムの提唱した同盟軍の教導部隊の新設の予定まであるってことになると……ねえ……」
誠もある程度状況が理解できてきた。実績、能力のある人材を手放す指揮官はいない。さらに同盟軍教導隊には保安隊の数倍の予算が計上されているという話からして、こんな僻地に喜んでくる人材に問題が無いはずが無い。
実際、この保安隊も教導部隊の設立という名目で管理部部長のアブドゥール・シャー・シン大尉が引き抜かれ、同盟司法局の武官系の調整任務が勤まる指揮官が見つからないという理由で保安隊副隊長の明石清海中佐は本局勤務に転属予定と言う有様である。猫の手も借りたいのが嵯峨の本音だろうと誠は目の前の浮かない顔の指揮官に目を向けていた。
しばらく沈黙する要とカウラだが、二人の言いたいことは誠にも理解できた。
嵯峨は現在でも遼南帝国皇帝の地位を降りられないでいる。胡州帝国第三位の大公家の前当主。テロで死亡したとはいえ妻の実家はゲルパルトの大統領の妹。さらに遼北軍の指導的ポジションに従妹がいて政治的なバックアップを受け続けている。普通ならば同盟加盟が遅く、アラブ連盟との関係を指摘されるところから発言権が強くない西モスレムの提唱した軍の教育専門部隊に比べて優先度が高い上にコネクションを使うと言う裏技もできるはずだ。
そう思って嵯峨を見つめる誠。嵯峨が次第にしおれたように机に伏せる。
「ああ、そうだよ。俺は上に信用無いし、今回の件で醍醐のとっつあんや忠さんの顔に泥塗ったから胡州からの人材の供給は期待できないし、他の国は未だに法術関係の人材の取り合いでうちに人を出してくれるような余裕はないし……」
いじけてぶつぶつつぶやき始める嵯峨。そんな彼をにらみつけながらこぶしを握り締める要と呆れて誠の顔を見つめるカウラ。茜も子供のように机にのの字を書いている父親に大きくため息をつくばかりだった。
そこにノックの音が響く。
「お父様!」
茜が声をかけるが嵯峨は黙って机の上に積もった埃でなにやら絵を描き始めていた。
「どうぞ!」
何時までもうじうじと端末のキーボードをいじっている叔父を見限ったように大声で怒鳴る要。そしてそこに入ってきたのは明石、吉田、明華、マリア、リアナそしてシンの姿だった。
保安隊の指揮官待遇の面々が同じように冷たい目線で嵯峨を見つめながら部屋に並ぶ。一人入ってくるごとに嵯峨の表情が暗く陰鬱なものに変わっていった。
全員の視線が冷たく刺さるのを感じているらしい嵯峨が突然立ち上がった。
「まず言っておくことがある!」
突然そう言った嵯峨に一同は何事かと驚いたような顔をした。誠も指揮官達と嵯峨の顔を見比べながら何が起きるのかと目を凝らした。
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 3 作家名:橋本 直