遼州戦記 保安隊日乗 3
クバルカン大陸の失敗国家と称される国々でももっとも激しい内戦を展開してきたバルキスタンにはロナルドもアメリカ海軍の特殊部隊員として非正規任務で派遣されたことは何度かあった。だが今回の奇妙なまでにお膳立てが整いすぎた出動には不信感しか感じることができなかった。
「お前さんも政府軍と一緒に撤収すればよかったのに」
コーヒーで意識が冷めてきたロナルドは笑顔で隣の島田を見上げる。
「技術屋の意地ですよ。こうなったらM10のスペックをできる限り多く勉強したいと思いましてね。まあサラには撤退するように言い含めたんですが……」
同行しているバックアップスタッフのサラ・グリファン少尉のことを口にするのは島田ののろけだと分かってロナルドの笑みが苦いものになる。
「まあここの基地のレーダーが生きてるのが唯一の救いだね。彼女にも歩兵の代わりではなく本業を生かしてもらえるわけだから」
島田は頭をかきながら光るものの何も無い渓谷を眺めていた。
「しかし、仕掛けるとしたら夜はありえませんか?」
「まあここのレーダーが生きていることはゲリラの連中も知ってるはずだからな。目的である選挙の妨害ができればあちらとしては満足なんだ。仕掛けて無駄に損害を出すほど馬鹿じゃないと言うことだろ」
後ろでアサルト・モジュールの駆動音が響く。煌々と照らされた明かりは、昼間の撤収作戦で右足の駆動部に異常が出た岡部のM10の修理作業のためのものだった。M10A6。アメリカ軍の時期主力アサルト・モジュールの法術適正者専用機の試験運用もこの作戦の重要な任務の一つではあった。
「岡部の機体も修理完了か……」
「まあ問題点が早めに出るのは技術屋としてはありがたいことですよ。とりあえず脚部のアクチュエーターの冷却機構の設計の甘さって結論ははっきりしていますから。ここから帰れたらすぐにメーカーに問い合わせるつもりです」
「ここから帰れたらか……」
ロナルドはコーヒーを口に含む。管制室からのデータを表示するモニターには何一つ反応するものは無かった。
「それにはあの気の小さい騎士殿にがんばってもらわなきゃならないな」
そう言って笑うロナルドに、島田も戦闘帽を手に取りながら愛想笑いのようなものを浮かべるだけだった。
季節がめぐる中で 38
「ブゴっ!!……」
痛みが右のあばらに走り、勢いをつけた体は土蔵に叩きつけられた。肺に肋骨が刺さったような感覚が支配し、口元からはだらだらと血が流れ落ちる。後頭部は土蔵に打ち付けた傷みでしびれていた。
「父上!」
そう叫び声をあげて縁側から飛び降りて駆け寄ってきたのは彼の娘、嵯峨楓だった。
「ふー……」
嵯峨惟基は視線を目の前で木で作った薙刀を構える妙齢の女性を前に木刀を杖代わりにしてよろよろと立ち上がった。
「無理ですよ!そんな!」
悲鳴にも近い娘の言葉に口元だけで笑いを返そうとするが、喉の奥から吐き出される大量の血にむせるとそのまま膝から崩れ落ちた。
「ここまでね」
紫の小紋の留袖にたすきがけしている女性、西園寺康子は静かに薙刀を下ろした。
かつての遼南帝国の栄光時代を築いた将軍カグラーヌバ・カバラの三女であり、嵯峨にとっては血縁では叔母に当たる人物である。西園寺家に嫁いだ当時は秘匿されていた遼州系の中でも稀有なほどの法術の適正を見せ、『西園寺の鬼姫』と呼ばれることもある法術の使い手だった。力の使い方、剣の使い方をすべて彼女に学んだ嵯峨にとっては天敵と言えるような存在だった。
血まみれの父親を抱きかかえていた楓が自分の体が黒い霧のようなものに覆われていくのを感じて思わず抱えている父親を突き飛ばしていた。
「なに驚いてるんだ?ひでえじゃねえか……」
言葉を話すことすらつらいと言うように体勢を立て直そうとする父からその不気味な霧は発生していた。折れ込んだあばらが次第に元の姿に直り、額や右肩から流れている血も次第に止まっていく。
「父上?」
その不思議な有様に楓は父に手を伸ばす。
「やっぱ久しく本気で剣を振っていなかったのがいけないんですかね、姉上」
縁側に腰掛けて先ほど楓が運んできた玉露をすする康子は黙って頷く。嵯峨は咳き込んで肺にたまっていた血をすべて吐き出すと何事も無かったかのように立ち上がった。
「父上?」
楓はただ呆然と父である嵯峨を見つめていた。法術師の中のごく一部に見られる強力な自己再生能力の発現。その能力を父が持っていることは物心ついたころに何度か冗談で手に穴を開けてはその直る様を見せると言う少し考えてみれば異常ともいえる父親の芸を見て笑っていた時代から分かっていた。
「私も新ちゃんと稽古するのは久しぶりだから張り切っちゃった」
伯母である康子の無邪気な言葉に楓は肩をなでおろした。楓が二人の勝負を見ていたときは思わず運んできた玉露を落しかねないものだった。
父の剣術の腕、そして干渉空間の時間軸をずらすことで発動する人間の限界を超えた動きですら康子の前には子供の遊びとでも言うべきものでしかなかった。一方的に薙刀の攻撃が嵯峨の急所を狙い放たれる。なんとかそれをかわそうと木刀を繰り出す嵯峨だが、着実にその一太刀一太刀ですぐには回復不能なダメージを受ける。
そして立ち上がって楓の運んできた湯飲みに手を伸ばす嵯峨だが、その稽古着は朝下ろしたばかりだというのにすでにぼろ雑巾のようになっている。
「それにしても新ちゃんの回復力は早いわよねえ」
嵯峨のことをいつも伯母が『新ちゃん』と呼ぶのは嵯峨が遼南を追われ、西園寺家に引き取られた時に名乗った『西園寺新三郎』と言う旧名によるものだとは知っていたが、楓はこの抜け目の無い策士でもある父を『新ちゃん』と呼ぶ伯母の態度にいま一つなじめなかった。
「まあ力が封じられていた時もこれだけは何とか使えましたからね。まあ意識に依存するもんで不安定なのが玉に瑕ですが」
そう言いながら照れ笑いを浮かべると嵯峨は湯飲みの玉露を飲み干した。
「そう言えば楓。転属の件は片付いたのか?」
嵯峨は肩をまわして先ほど康子に砕かれた右肩が直ってきているのを確認していた。
「ええ、すべて書類上の手続きは終わりましたから」
「そうか」
それだけ言うと嵯峨は湯飲みを置いて立ち上がる。そのまま手にしていた木刀を正眼に構えすり足で獅子脅しのある鑓水の方へと歩み寄っていく。
「ああ、そうね。要ちゃん元気かしら」
あっけらかんと康子が娘の名を呼んだ瞬間、嵯峨親子は微妙に違う反応を見せた。
明らかに困ったことを言われたなというように木刀を納めて、照れ笑いを浮かべながら姉を見つめる嵯峨。頬を赤らめて遠くを見つめるような浮ついた視線をさまよわせる楓。
「私もね楓ちゃんと要ちゃんが結婚するのが一番いいように思えてきたのよ。確かに女同士だけど前例はあるって新ちゃんも言うし……」
「それはそうなんですがねえ……」
口答えをしようとした嵯峨だが、康子に見つめられるとただ口を閉じて押し黙るしかなかった。
「楓ちゃんなら安心よね。お父さんとは違ってきっちりしてるし」
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 3 作家名:橋本 直