遼州戦記 保安隊日乗 3
要は静かに目の前に漂う湯気を軽くあおって香りを引き寄せる。隣のカウラはミルクを注ぎ、グラニュー糖を軽く一匙コーヒーに注いでカップをかき回していた。
恐る恐る口にコーヒーを含むラン。次の瞬間その表情が柔らかくなった。
「うめー!」
その一言にマスターの表情が緩む。
「中佐殿は飲まず嫌いをしていたんですね」
そう言って面白そうにランの顔を覗き込むアイシャ。
「別にいいだろうが!」
そう言いながら静かにコーヒーを飲むランにマスターは気がついたというように手元からケーキを取り出した。
「サービスですよ」
そう言って笑うマスター。
「これはすいませんねえ。良いんですか?」
「ええ、うちのコーヒーを気に入ってくれたんですから」
そう言って笑うマスターにランは、受け取ったケーキに早速取り掛かった。
「あーずるい!」
「頼めば良いだろ?」
叫ぶシャムを迷惑そうに見ながら手元のケーキ類のメニューを渡す要。
「なんだ、ケーキもあるじゃん」
そう言いながら吉田はシャムとケーキのメニューを見回し始めた。
「それにしてもアイシャさん。本当に軍人さんだったんですね」
「軍籍はあるけど、身分としては司法機関要員ね……あの保安隊の隊員ですから」
「そーだな。一応、司法執行機関扱いだからな……つまり警察官?」
そう言いながらケーキと格闘するランはやはり見た通りの8歳前後の少女に見えた。
「チョコケーキ!」
「あのなあ、叫ばなくてもいいだろ?俺はマロンで」
吉田とシャムの注文に相好を崩すマスター。
「何しに来たんだよ、オメエ等」
「いいじゃないか別に。私はチーズケーキ」
要を放置してケーキを注文するカウラ。誠は苦笑いを浮かべながらアイシャを見つめた。コーヒーを飲みながら、動かした視線の中に誠を見つけたアイシャはにこりと笑った。その姿に思わず誠は目をそらして、言い訳をするように自分のカップの中のコーヒーを口に注ぎ込んだ。
「でも意外だよな、アイシャがこんな雰囲気のいい喫茶店に出入りしているなんてよ」
そう言いながら周りの調度品を眺める要。胡州四大公家の筆頭、西園寺家の嫡子である要から見てもこれだけのこだわりのあるアンティークを並べた店は珍しいように見えるらしく、時々立ち上がってはそれぞれの品物の暖かく輝く表面を触っている。
「なによ、要ちゃんも実は行きつけのバーがあるって……」
「おい、アイシャ。それ以上しゃべるんじゃねえぞ!」
要はそう言うとコーヒーに手を伸ばした。
「ああ、あのイワノフとかが行ってる店か?」
「確かにあそこは神前が行ったら大変なことになるからな」
カウラと吉田が頷く。誠とシャムは取り残されたように要を見つめた。
「馬鹿、コイツを連れて行かねえのは飲み方知らねえからだよ!なあ神前!」
そう言う要の言葉に誠はただ頷くしかなかった。誠は自分でも酒を飲めば意識が飛ぶと言う習性を思い出して苦笑いをする。
「じゃあ、アタシは連れてってくれないの?」
「ガキは出入り禁止だ」
突然声を出したシャムに向かってそう言うと要はコーヒーを飲み干した。マスターが吉田達に切り分けたケーキを運んでいく。
「そう言えば明日か?殿上会(でんじょうえ)は」
要の言葉で全員が現実に引き戻された。遼州星系の最大の軍事力を誇る胡州帝国の最高意思決定機関である殿上会。庶民院と貴族院を通過した法案のうちの重要案件の許諾を行うその機関の動きは、誠達保安隊の隊員にとっては大きな意味を成すことだった。今回の殿上会の議題にも遼州同盟機構への協力の強化、特に西モスレムに用意される軍事組織への協力の是非がかけられることになっていた。
「しつこいようだけどあんたはいいの?一応、四大公家の嫡子じゃないの」
そう言って流し目を送るアイシャ。妙に色気のある瞳に要はうろたえながら言葉を継いだ。
「何度も言わせるなよ馬鹿。あそこは四大公、平公爵、一代公爵、侯爵家までの出席だけが認められるからな。家督相続を受けていないアタシはお呼びじゃないんだ。それに水干直垂とか十二単なんか着込むんだぜ。柄じゃねえよ」
そう言い切る要だが、アイシャはさらに相好を崩して要を見つめる。
「そう言えば今回は嵯峨隊長の隠居が議題になってるわね。楓さんが跡を継ぐことになるんだけど……」
要は『嵯峨楓』の名前が出たところでびくりと体を動かした。
「頼むわ。楓の名前を出すな」
そう言ってうつむく要。マスターは不思議そうな顔をしているが、全員は要の気持ちがわからないわけではなかった。時々まったく空気を読まない要宛の大荷物を保安隊に送りつけてくる要に心奪われた女性。生まれついてのサディスト西園寺要に尽くすことに喜びを感じていると言うアイシャの発言でその人物像が極めて怪しい人物であると誠は思っていた。とりあえず楓の名前を聞いてからこめかみをひくつかせている要に遠慮して全員が言葉を飲み込んだことは正解だった。
そんな中、一人この状況を知らない人物がいた。
「おい、西園寺。楓は今月中には保安隊に配属になるんだぞ」
ぼそりとつぶやいたランの一言。誠は周りを見回すと彼と同じく係わり合いになることを避けたいと言う表情のカウラやシャムの姿がそこにあった。
思わず要は立ち上がっていた。
「落ち着けよ、西園寺」
カウラの一言でそのまま要は椅子に座った。誠はランの耳に口を寄せる。
『それはうちでは禁句なんですよ。要さんは嵯峨楓少佐が苦手なんで……』
そう言うと要の表情を見てすぐに合点が行ったというように静かにコーヒーをすするラン。
「別に気にするなよ」
言葉とは裏腹に低い声に殺意がこもっている要。誠は思わず乾いた笑いを浮かべた。
「まあいいじゃないですか!コーヒーおいしいなあ!アイシャさん本当にありがとうございます!」
うつろな誠の世辞。空気を察して要のテーブルに同席しているシャムと吉田はケーキをつつくのに集中し、カウラは意味も無くカチカチとテーブルを突いた。
「ああ、そう言えば皆さんの会計は……私は払わないわよ」
思い出したようにコーヒーを飲み終えたアイシャの言葉が福音にも聞こえた。
「なんだよ、けちだなあ」
要の意識がアイシャの誘導したとおり別の話題にすりかえられた。
「まあ、しかたないんじゃないか?俺等ただ尾行していただけだしな。すいません!こいつと俺のは一緒で!」
そう言うと吉田はケーキを貪り食っているシャムの頭を叩く。
「そうだな、私も自分の分は払うつもりだ」
静かにカウラが頷く。要は同調してくれることを願うようにランに目を向ける。
「なんならアタシが払ってやっても良かったのによー」
「じゃあ、ちっちゃい隊長!アタシの……」
「バーカ。全員のなら上官と言うことで払ってもやったが、西園寺だけの勘定をアタシが払う理由はねーだろ?それに人の気にしていることを平気で口にする馬鹿な部下を奢るほどアタシは心が広くねーんだ」
そんな言葉にうなだれながらポケットから財布を取り出す要。
「じゃあお勘定お願いします」
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 3 作家名:橋本 直