ハローベイビィ
いつかは世界を救うらしい形のないもの全てを汚いと言い切る言葉自体は、とてもとても静かなものだった。しかし、幼い日の彼は、母の人形を失ってしまったのだ。痣だらけの身体を抱いてくれる者もなく、哀しみを癒してくれる人形すら失って。いつだって一人っきりで、自分の肩を抱いていた。そんな彼にとっては、形のないそれは、きっとあまりにも不確かで無意味だろう。
マリヤは、そんなイチの孤独を癒してくれるのだろうか。だとしたら、イチと距離を置くことしか出来なかった自分がここに来た意味はあるのだろうか。
不意に思い知る無力さに、タロの身体は重くなる。しかしドリは、そうではないようだった。
「待ってッ。」
ずるりと、部屋の中へ後退しようとしたイチの腕を掴んでドリが引き止める。両手でしっかりとイチの左腕を掴んで、綱引きのポーズ。
イチがあからさまに顔を顰めて、ふうと溜息をついた。苛立ちを抑えるような溜息で、そのままドリが酷く暴力を受けるのではないかと、タロは彼女を庇えるように体を緊張させる。
「……僕を置いていくくせに、僕を置いていくくせに、触らないでくれッ。ねェ、僕は知ってるんだよ? そうやって柔らかいから、すぐに壊れちゃうんだろう? そうやって暖かいから、離れていくんだろう? ねェ、僕は知ってるんだよ。優しく触るかわりに、僕を残して行っちゃうんだ。知ってるんだよ。そんな目で見るのは止めてくれよ。解らないよ。何を伝えたいのか解らないんだ。御伽噺じゃないんだから、言葉がないと伝わらないんだよッ。……でもね、マリヤは違う。マリヤは僕を置いていったりしない。」
イチの右手が伸びて、哀しそうに、苦しそうに、ドリの長い髪を撫でる。ドリは困惑した表情で、されるがままになっていた。助けを求めるように、ちらりとタロを振り返る。
タロにだって、よく解らなかったけれど、ぼんやりと母親のことを言っているのだと思って頷いた。ドリの発したどの信号を肯定したかなんて、全く知れなかったけれど。
「イチ……イチ。どこにも行かないわ? ねェ、アタシあの日、アナタのことが好きだって言ったじゃない。アタシはアナタの傍にいたいんだから、どこかへ行く筈ないじゃない。ねェ、イチ、覚えておいて欲しいの。アタシは、アナタを置いてどこかへ行ったりしないわ。」
段々と焦点の定まらなくなってきたイチの目を覗き込んで、ドリは語りかける。ついさっきイチの吐いた暴言は、彼女の中でどう処理されているのだろうとタロは思う。確かにそれよりも、目の前の冷たく暗い海で一人溺れているような顔をしたイチに、愛情を説く方が大事なのだろう。まるで聖母のように慈悲深く、人は、女は、こんな風になれるものらしい。
ドリが一歩踏み出す。
ドアが大きく開かれ、暗い部屋の中に光が差し込む。
何だか、薄っすらと、厭な予感がした。ぬるりと頭蓋骨の内側を冷たく這い回るような種類の、厭な予感。ドリも同様の信号を感じ取ったらしく、そうっと、イチの肩越しに部屋を覗き込んだ。
そして。
ひゅうッと息を呑む。
「人形じゃないのッ!」
甲高い彼女の声と共に、冷たい音が鳴り響いた気がした。
ぞわぞわと虫の大群が頭の天辺からつま先までを這い回るようなこの感覚を、なんて言ったらいいんだろう。
ドリが、その小さく華奢な体からは想像もつかない力強さで、ぐいッとイチを脇へ押しのける。そして部屋の中へと上がりこむ。タロはといえば、開いたドアから僅かに見える部屋の中にどんと置かれた大きくて重そうなガラスケースと、その中に楚々と立っている等身大の、着物姿の人形に目を奪われていた。
この人形は見たことがある。否、この人形に良く似た人形を。否、この人形に良く似た人を――。
見たことがある。
「アタシよりもこんな人形がいいって言うのッ? アナタの名前を呼ぶわけでもないのに? アナタに触れるわけでもないのに? ねェッ、アタシはッ、イチッ、アナタを抱きしめることが出来る。こんな人形みたいに、冷たくもないし硬くもないッ。」
ヒステリックな叫び声。
慌てて部屋の中へと入っていくイチを振り返ったその小さな顔は、興奮で真っ赤に染まっている。
「マリヤに、触るなッ。」
イチがガラスケースに駆け寄る。
そのとき、流し台に立てかけてあった小振りの包丁を、イチは掴んだ。
それを見て。
ドリは。
ガラスケースの横、『マリヤ』と並んで立っているドリは。
静かに目を閉じて、表情を全て消した。
細い両腕が、振り上げられる。イチがガラスケースの中のマリヤへと手を伸ばす。ただ、その腕はドリにすら届かず、まだ遠い。
「ドリ、危ないッ!」
ワンテンポ遅れて、タロも駆け出す。今から走っても、イチの手に握られた銀色の刃物がドリに届く方が早い。振り上げる、前へ差し出す、自分の足がこんなにもゆっくりと見えたことはない。悪い夢の中みたいに、空気が粘着質で上手く前へ進めない。
「人形じゃないのッ。」
ドリが叫ぶ。
振り上げられた細い腕が、ガラスケースへと叩きつけられた。
粉々になった硝子の欠片がキラキラと、零れ落ちる。ドリが振り回す細い腕から、赤い血が、部屋中に飛び散ってキラキラと光る。
彼女の腕は、更に、中の人形へと伸びた。
けれど、彼女の指先が届く前に。
人形はさらさらと崩れていった。
肌の白、
髪の黒、
着物の赤、
口唇や爪先のピンク。
色とりどりの粒子になって、さらさらと。
ガラスケースの中へと溜まっていく。
有り得ない光景だった。
そうか、これは夢なんだ。
悪い夢。
どくどくと、アドレナリンが脳内を駆け巡る音を聞きながら、タロは思った。
それはほんの僅かな時間だった。
イチの膝が、かくりと力を失って前に折れる。タロは止まったイチに飛びついて、抱きすくめるようにして包丁を取り上げた。
ギザギザに割れた硝子でまた、腕に幾つもの傷をつけながら、ドリの赤い腕が空を切る。
「あああああぁぁあぁぁぁあぁぁぁああぁあああ――――――――――――――ッッッッッッ。」
イチがタロの腕の中で叫んだ。
その叫び声と共に、人形が誰に似ていたのかをタロは思い出した。