ハローベイビィ
どんよりとした曇天の下、今朝の天気予報をタロは思い出す。その隣でドリは、心許なさそうに肩を縮こまらせて歩いている。ただでさえ細く小さな肩だというのに、今は更に小さくなってしまっている。抱きしめてよ、と。慰めを求めているようにも見えるのに、そうやって抱きしめたら壊れてしまいそうな華奢さで、タロはうずうずとする両手をズボンのポケットに突っ込んで紛らわす。ドリの小さな歩幅にあわせて歩く行為は、どこかむずむずとタロの心を刺激する。ゆっくりとしか歩けないじれったさや、注意を怠ると必死に歩いているような様子が、タロの脳髄を甘ったるく溶かす。けっして、ドリはそんなタロの気持ちを知ることはないだろうけど。
否、もしかしたらドリは全て知っているのかもしれない。夜中にいきなり電話をしてくることも、こっちの予定なんかお構いなしに呼び出すことも、タロが抗えないことを知っているからこそなのかもしれない。あまりの自分勝手な振る舞いに頭にきていたって、ドリは当然な顔をしてタロの優しさを受け止め、にっこりと笑うのだ。畏まりました、女王様。そんな風に笑われたら、従う以外ない。
イチの住むアパートは色褪せた古い建物で、漆喰の壁は灰色の空を背景に、崩れ落ちそうに見えた。遠方に住んでいるという、母方だか父方だかの祖父母が家賃を支払っているらしい。タロと二人で不動産へ行って、見に行った一軒目でさっさと決めてしまった。一人で部屋を借りるなどと言うから大仰に心配して、無理無理ついていった自分が莫迦みたいに思えるくらいにあっさりと、だ。崩れ落ちそうな壁も、立て付けの悪い窓も、不動産屋の説明もほとんど気に留めずに。そのアパートで暮らすイチの様子は、大昔の中国の隠者を思わせた。
一階の角部屋。条件も良くなかったから随分と安い賃貸料だったことを思い出す。錆びた鉄の郵便受けからは、沢山のダイレクトメールやらチラシやらが溢れ出している。荒廃した生活を想像させるその郵便受けを見て、ドリが息を呑んだ。
「イチは……。」
乾いた声。喘ぐように、ドリは紡ぎ出す。
「イチは、家にいるの?」
縋りついていた希望を取り上げられて、ドリの声は途方に暮れていた。
来るのが遅すぎたのかもしれない。そんな思いでさえ、遅すぎる。ドリを通してしかイチに対して真剣になれない自分に、タロはうんざりした。幼馴染みだった筈だ。大切な、昔からの友人だった筈だ。それなのに自分はいつから、イチに対してこんなにもよそよそしくなってしまったんだろう。突き放したのは一体、どちらからだったのだろうか。
昔見た探偵物の小説をふと思い出して、横目で電気メータをチェックする。メータは僅かずつ動いてはいるものの、そこから情報を読み取るやり方が分からずに、何の根拠にもなりそうになかった。耳を澄ませて、部屋の中のイチの息遣いを感じ取ろうとしてみる。けれどそれで分かったのは、イチの息遣いなんてもの疾うの昔に分からなくなっているということだけだった。
ドリの言葉に答える代わりに、ドアチャイムを鳴らした。
返事はない。時間をおいて、二度、三度と鳴らす。チャイムを鳴らす度に、じりじりと焦燥が体を炙っていく。ドリが隣で俯いた。電話のときと同じように止めるわけにはいかなくて、けれど、ただチャイムを鳴らし続ける自分は莫迦みたいだと思う。
「……誰?」
失望に呑まれて、イチの消息そのものを半ば諦めかけたとき、ぴったりと閉じられたドアの向こうから、からからに掠れて罅割れた声が返ってきた。歪んではいたけれど、確かに彼の声だ。ドリが弾かれたように頭を上げる。ぼんやりとしていた大きな目が、焦点を結んできらきらと輝き始める。
「イチ? イチ? どうしたの、最近学校に出てこないし、電話にも出ないし……。心配で、タロと二人で見に来たの。開けて?」
「……ん、ああ。」
曖昧な返事。ドアは閉ざされたままだ。
「イチ、開けろよ。何ともないなら何ともないで、お前の顔見るまで帰れない。」
「うん、でも……。」
ドアの向こうで、イチがもごもごと呟く。明瞭に伝わらなかったその音の中から、彼女が、とかびっくりするといけない、なんて言葉がようやく聞き取れた。
「誰かと一緒なのか? 誰といるんだ、イチ。」
「帰ってくれよ。僕は大丈夫だから。そうやって騒ぎ立てられると、彼女が怯えてしょうがないんだ。」
苛立ちを紛らわすような、叫ぶような声が返ってくる。初めて遭遇するイチのこういった態度に、ドリは顔を強張らせた。タロは久しぶりにイチの笑顔の向こう側を垣間見た気がして、体を硬くしているドリのとは反対に昂揚を覚える。友人関係を共に築いたのは、確かにこの、笑顔の奥に隠された彼だった。
「彼女って? なァ、明日は……明日は、学校に来るのか?」
ガタガタとドアノブを揺すると、僅かにドアが開いて、同じように向こう側からノブを掴んでいる腕が見えた。更に力を入れて引くと、また、僅かにドアが開く。
「イチ。」
昔は良く、押し合いっこや、シーソーを使っての力比べをした。どちらが強いというわけでもなく、タロが勝ったかと思えば、次にはイチが笑っていた。彼の力は、こんなにも弱かっただろうか。
「イチっ。」
顔が見えた。怯えた目が、ぎらぎらと、タロの目を射抜く。バタンバタンと扉の開閉する乱暴な音や、蝶番の錆びて絶息しそうな甲高い音が鳴り響くたびに、ドリがびくびくと肩を竦める様子が見えた。彼女はイチに怯えている。タロは今までにも増して、ドリを愛しく思った。
「……イチッ!」
バタンっ、とドアが一際大きく開く。
「お前らのせいでマリヤの声が聞こえないじゃないかァッ!」
ドアに外へと引きずられてきたイチが、叫んだ。
こけた頬。ぼさぼさの髪。すべすべと、少女のようだった肌には赤いニキビが幾つも出来ている。大きく目を見開いて、泣き出しそうに見えた。肩でぜいぜいと息をして、ドリとタロを睨みつけながらも動けないでいるようだった。
「イ、イチ。ごめんね、アタシたち、心配だったのよ! 心配でどうしようもなかったの。マリヤ、さんって人、中にいるの? でも、でも、早く言ってくれれば良いんだわ。イチにそういう女の子がいるなんて、ちっとも知らなかった。だから、アタシすっかり勘違いしちゃってて。この間は、ごめんね、困らせるようなこと言って。ねェ、イチ、アタシたち心配だったのよ。」
ドリが、急き立てられるように喋る。その大半は、この状況に関係ないものである気がタロはしていたけれど、黙って聞いていた。必死に弁解するドリの姿は、滑稽で、憐れで、それでも自分の中から彼女を弁護して擁護したい気持ちが消えないことを少し、愉快にも思った。
「僕とマリヤは、そんなんじゃない。」
ぎょろりと、イチの目がドリに向けられる。
「じゃあ、何? お友達? 親戚? 紹介してくれる?」
ドリがイチに詰め寄る。大きな目が更に大きく見開かれて、異様な熱を帯びていた。
「僕と、マリヤは、そんなベチャベチャした汚い関係じゃないッ。止めてくれよドリ。そうやって僕に期待するのは止めてくれよ。」
イチの悲鳴。