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ハローベイビィ

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 ドリは毎日イチの話をする。イチが学校へ来ていなくても、ドリは毎日タロに話して聞かせる。自分の好意を確認するみたいに、自分が忘れないための呪文みたいに。ただそれは長期休暇なんかがあると段々と減速していって、最後には泣きそうな顔で会いたいってだけ繰り返す。タロを呼び出すのとイチを呼び出すのでは、ことの重大さが違うらしい。自分を呼び出して泣くくらいならイチを直接呼べば良いのにとタロは思うのだけど、結局そんなドリの恋の病を解消するのはタロの役目だったりする。
 イチが学校に来なくなってから、五日が経った。二日目三日目は、体調を悪くしたんじゃないかとドリが大いに騒いだ。四日目には、今日こそは出てくるだろうという期待を裏切られて、タロも幾分か不安な気持ちになり、ドリに催促されて電話をかけた。イチは電話に出なかった。五日目にはドリはイチの家へ行くと半泣きになりながら言ったが、一人で行くことがどうしても出来ないらしく、タロが都合が悪いと言ったら大人しく引き下がった。
 そのうち、ひょっこりと顔を見せる気がしていた。何事もなかったかのような顔をして、可笑しくない冗談で誤魔化して。
このままイチが来なければいい。そんな風にもタロは思った。ドリがイチを忘れるまで、来なければいい。そうして初めて、ドリはタロの献身に気付くだろう。イチがドリを選ばないなら、ドリはタロを選ばなくてはいけない。そうしなければ、もう三人ではいられない。三人で、なんて。イチが来なければと願っているくせに、おかしな話だ。けれどタロにはわからない。ドリがイチを見つめるのは苦しかった。そんなドリへの思慕を捨てられないのは苦しかった。けれど、三人でいた時間が、今ではキラキラと輝いて見える。たった、五日前なのに。大昔のことのようだ。
 六日目の今日に至っては、ドリの機嫌は最悪だ。鬱々と黙り込んでは時々、刑執行のときを待つ死刑囚みたいに、どんよりと時計を見る。時間の進まないことが辛いのだろう。そして、イチのいない時間を積み重ねることが辛いのだろう。タロとしても、そろそろイチが死んでいるんじゃないかなんて、莫迦みたいな妄想が浮かんでくる。
「干乾びて、ミイラになってたら、どうする?」
「六日じゃ人は死なないわよ。水がなくたって、三日は生きるわ。」
 神経質に眉を顰めて、ドリは吐き捨てる。
「旅に出てたりして。今流行りの、自分探し。」
「それは、イチの親友としての、意見?」
「いや、アイツそんなタイプじゃないけどね。」
 ギロッと、大きな目がタロを睨みつける。ドリの神経質な沈黙が辛い。
「事故とかで――。」
「……ッもう、黙っててよ!」
 今の彼女に冗談が通じないことを分かってながら、沈黙に耐えられない自分は、なんて可哀想なんだろうとタロは思った。
 イチは母親が小さい頃に蒸発し、父親が数年前に事故で死んでから、一人暮らしをしている。彼の母親に関しては、タロも小さかったので詳しいことは分からないのだけれど、小さな町に充満する下世話な噂話によって大体のことを知った。
イチの母親は、若い男と逃げたのだ。浮世離れした雰囲気のある、綺麗な女性だったらしい。勤勉さだけが美徳のサラリーマンである夫と結婚したことが冗談に思えるほど、ふわふわとして、ある日ひらりといなくなったとき周囲は納得さえした。真面目な男が彼女を捕まえておけなくなる日を、少しだけ期待していたのかもしれない。浮気や不倫といった生々しい表現が似合わない彼女を連れ去った男は、草臥れた様子の灰色の背広を着込んだ男だったとか。イチの父親はそれを聞いたとき、やりきれなかったに違いない。
そうだ、とタロは思い出す。
イチは昔、もっと分かりやすい子供だった。年相応の表情、好奇心、自尊心。今のように何を考えているか分からないなんてことはなく、タロたちと同じように笑い、同じように泣いた。母親が蒸発してからも、それは変わらなかったように思う。母親がプレゼントしてくれたのだという人形をいつでも持ち歩いて、女のようだとからかわれて半泣きになりながらもそれを手離しはしなかった。
いつだっただろう、イチがこんな風になったのは。
母親が蒸発して数ヶ月。段々と彼は、体に痣をこしらえ始めた。手足に見えているものは数えられるほどだったけれど、駆けっこをするときも遊具で遊ぶときに苦しそうにして、じきにタロたちが遊ぶのを遠巻きに見ているだけになった。それでも右手に人形を抱いて、にこにこと笑っていたのだ。遊具から降りて地面に絵を描いたりするときには、混じって騒いだりもした。率先して遊びを始めることもあった。イチの入れない遊びに熱中してしまい彼を放っておくと、怒ってしばらく口を利いてくれないこともあった。
今みたいに、何かを誤魔化すためにただ笑っているんじゃあなくって。
ぼんやりと笑うイチ。そんな彼の記憶は、右手に人形を持たなくなっていた。持っていたら持っていたでからかいの対象にするのだけれど、まさか彼が手離すなんて思わなくて、タロはどうしたのと訊ねた覚えがある。死んじゃったんだよ、とイチは言った。ママみたいに死んじゃったんだよ、とタロに言ったのだ。
彼は母親が男と逃げたことを知らなかったのだろうか。彼のとても柔らかい部分にその問題はある気がして、踏み入るのは躊躇われた。
「……イチ、何してると思う?」
 ドリに話しかけられて、ふとタロは過去から浮上した。
高慢な彼女が今にも萎れそうだ。イチが消えてしまったなら自分も一緒に消えてなくなりそうなくらい、頼りなく儚く泣き出しそうになっている。
そういえば、ドリはイチの母親によく似ている。顔かたちではなく、雰囲気。イチの母親はタロの記憶の中で、妖精のようになってしまっているのだけれど、子どもの目から見ても非常に女性的な人だった。イチを遊びに誘いに行って、彼の母親と顔を合わせたりなんかすると、とてもドキドキしたのを覚えている。イチの母親からは、とてもいい匂いがした。タロの母親が身にまとっている、ほっとするような匂いじゃなくって。頬がカーッと熱くなって、心臓がばくばくしてしまって、頭の天辺から足のつま先まで恥ずかしさでいっぱいになってしまうような、そんな匂いがイチの母親からはした。今思えば、香水か何かだったのかもしれない。けれど、それは断片的な記憶フィルムからは、もう読み取ることはできない。
そんな匂いを、タロはドリからも感じることが出来た。ドリの仕草や言葉の端々からも。ドリはあまりにも、オンナノコだった。
「電話してみようか。」
 あまりにもドリが可哀相で、イチのことなのに素っ気なく出来ない。こくりとドリが頷く。細い首に小さな頭がぶら下がって、夏の終わりの向日葵のようだ。
 その場でケータイを取り出してイチの家の番号を呼び出し、電話をかける。期待と、絶望を孕んだ熱のこもったドリの視線に、不謹慎ながらタロの胸はどきどきと高鳴った。
 トゥルルルルルル。
作品名:ハローベイビィ 作家名:はち子