ハローベイビィ
目が覚めて、ボクの部屋に彼女がいる。
夢の続きを見ているのだろうかと、ぼんやりと思った。
いつもは狭く冷たい部屋が、幸せの温度で充ちている。母鳥の胸の温度だ。安堵が体中に溢れて目蓋を重たくさせる。けれどもう一度目を閉じてしまえば、次目覚めたときには彼女が消えてしまっている気がして跳ね起きた。手のひらが、彼女とボクを隔てる硝子板に触れる。そのひんやりとした感触に、ボクは昨日の仔細を全て思い出した。あの膨らみきった肉饅頭のような男に勧められるまま代償を支払い、今にもバラバラになりそうな古いリヤカーに彼女を乗せて、ボクは二駅分の距離を歩いて家まで辿り着いたのだ。
今振り返ると長い道程も、辛さは全く感じなかった。僕は目を開けたまま、彼女との新しい日々を夢見ていたし、振り向けば未来の女神がボクに微笑みかけていたからだ。
「マリヤ、おはよう。良い朝だね、とても気持ちが良い。」
彼女は僅かに微笑んだ後、横目で時計を指し示す。時計の針は既に、正午を通り過ぎていた。確かに、もう朝じゃあない。
けれども朝の気分だった。物事の始まりとして希望を孕んだ朝。そしてボクにとっての希望は、彼女の存在自体だった。
「目が覚めて、一人じゃないなんて、本当久しぶりなんだ。どれくらいだろう。五年は経ってないけど、それくらいかな。母さんも父さんも死んだんだよ。母さんはボクが五歳くらいのときに。父さんは五年くらい前に。母さんが死んだときのことはよく覚えてないんだけどね、お母さんてのは、子供のこと何より大事に思うものなんだろう?だからボクだって、すごい悲しかったと思うんだ。」
彼女の顔が曇った。見た目通り繊細で、優しい人なんだろう。ボクは彼女に悲しい顔をさせたことを申し訳なく思うと同時に、深い喜びを感じた。叫びだしたいほどの情動が、じわりじわりと、体中の細胞を侵していく。
「別に君に、そんな悲しい顔して欲しかったわけじゃないんだ。ただ、知っていて欲しくて。ボクは、君に。ボクの全部を知って欲しいんだよ。」
マリヤは何かを慎重に思案していたようだったけれど、やがてこくりと頷いた。思慮深く慎ましい彼女に、ボクの胸の中は愛しさという甘いワインで満ち満ちる。彼女のぽってりとした口唇にキスをして、華奢な身体を抱きしめられたなら、ボクの胸のワインはたちまち大津波になって二人を押し流してしまっただろう。けれどボクはその衝動を、ぐっと我慢した。ボクたち二人の間に流れているものは、もっと清らかで、もっと慎ましいものでなければいけないと思ったからだ。
人間は、動物としての欲求に流されちゃいけない。確かにそれらはすぐ傍にあって何より確かなものに見えるけれど、人とはもっと理想を描くべきだし、常に理性的であるべきだ。
そしてマリヤのように、楚々として在(あ)るべきだろう。
「母さんの話をしていいかい?」
マリヤはにっこりと笑って頷く。彼女だってボクに近付きたいのだ。人は肉体でなく精神で、限りなく近くに寄り添える。思考や創造といった精神活動を行うのは人だけだから。本来それは、生きていく上では無駄なものでしかなく、肉体と精神は常に反発しあっている。だから皆惑わされて、あっちへふらふら、こっちへふらふらと定まらない。動物はそんな重荷を持たないから、生きるのも死ぬのも、非常にスマートだ。だけど、だからこそボクたちはその精神活動を深め、洗練し、高めていかなくてはいけない。手を繋ぎ、抱き合って温もりを交換することは動物にだって出来る。人は心をもって人と寄り添い、肉体の悪魔に支配されてはいけないのだ。温もりに溺れてしまえば、きっと最後はその温もりゆえに裏切られることになる。
「線の細い人だったよ。声の高い人だった。歌うように喋って、踊るように歩いた。」
ボクはマリヤに微笑みかける。彼女はどこか母に似ていた。
目や口唇の形など一つ一つを見比べれば、そう似ているとは思えないのだけれど。ボクには時々、少女のままで年を経たようだった母と彼女が重なって見える。だからマリヤも今でこそまだ言葉少なではあるけれど、歌うように話し、踊るように歩くだろう。そして椿の花がある朝突然、ポトリと頭を落とすみたいに、ある日突然逝ってしまう。
母の死は突然だった。ついさっきまでそこにいたことの方が嘘だったみたいに、町の中から、家の中からいなくなった。部屋のあちこちには母の存在が染み付いているのに、ふと振り返ればそこにいる気がするのに、どこをどう探してもいなかった。
けれどもボクは、それは父のせいだったのだと思っている。人魚姫の童話で上手く立ち回れなかった王子のように、大事なものを泡に変えてしまったのだ。たった一言、愛を告げるだけだったのに。相手の思慕に気づくことが出来れば良かったのに。
「ボクが母さんから最後に貰った贈り物は……確か、人形だったかな。マリヤ、君みたいに綺麗な顔をした人形でね、大事にしてねって言ってボクにくれたんだ。ボクはとても大事にしてたんだけど、とてもとても大事にしてたんだけど、失くしてしまったみたいで今はないんだ。どうしてだろう。いつ失くしてしまったんだろうね。まるで母さんみたいに、僕の前から突然いなくなっちゃったんだよ。母さんがくれたものだったからかな。」
優しい、気遣うような視線を受けて振り返ると、マリヤが笑っていた。ボクはこんな風に笑うことの出来る女(ひと)を知らない。
不意に眦(まなじり)に熱を感じたかと思うと、涙が溢れ出してきた。彼女に話すことで無意識に自分が許しを求めていたこと、そして彼女が敏感にそれを感じ取って許してくれたことに、ボクは気づいた。
「マリヤ……。」
彼女は笑っている。
「マリヤ……ッ。」
彼女は微笑(わら)っている。
「君は、どこへも行かないよね?」
ボクは涙に溺れていた。