ハローベイビィ
損な役回りだと思っている。
昨夜、泣きじゃくるドリの電話に散々付き合って、受話器を手放すことが出来たのは深夜になってからだった。一生に一度の恋というわけでもないだろうに、身も世もなく嘆くドリの声が耳から離れない。時折見え隠れした、振られるなんて夢にも思わなかったというような傲慢さには辟易したが、ギリギリ喉まで上がってきた溜息は必死に呑み下し続けた。
タロも、まさかイチがドリを振るなんて思っていなかったのだ。茫洋として掴みどころのないイチの真意は量りかねたが、友情以上の好意が二人には介在しているように見えた。それとも、それは全てドリが発信源の一方的なものだったのだろうか。
ドリとは、学校の入学式で知り合った。イチと二人で、連れ立って歩くタロに、彼女は笑って話しかけてきた。
「道に迷ったの。」
行き先を尋ねれば、自分たちと同じ新入生で、オリエンテーションに向かうところだと言う。
「俺たちも、ちょうど行くところ。」
な、とイチを振り返ると、彼はこくッと頷く。そして、続いた言葉に、タロは驚いた。
「一緒に行く?」
イチが女の子を嫌がらないなんて、珍しいことだ。整った容姿を持つ彼は、女の子たちから人気があった。けれど、タロ以外の男友達ともあまり付き合おうとしない彼は、近付いてくる女の子たちを嫌がった。誘いを拒む以外でイチが女の子に話しかけるなんて、初めてかもしれない。
「ええ、お願い。」
共通の趣味があるとか、性格が似ているなんてことは、特になかったように思う。けれど、その日以来、タロとイチとドリ、三人で行動することが多くなった。タロが離れていけば一人ぼっちになってしまいそうだったイチ。そんなイチを放っておけず、二人きりの閉じた関係を選んできたタロにとって、それは新しい世界だった。お互いのことはうんざりするほどよく知っていて、イチとは言葉がなくても済んでしまう。けれど、ドリとはそうはいかない。色んなことを説明して、話し合って、面倒臭いと思うときがあっても、それは新鮮で楽しかった。
ドリは次第に、タロよりもイチを気にかけるようになった。タロはそれに気付きながらも、イチのことよりドリを優先するようになっていた。そうした変化は、タロの胸をきゅうッと締め付けた。その度に、いつものことだとタロは自分に言い聞かせた。女の子がイチを好きになるのはいつものことだ。それがタロにとって特別な女の子でも。それが珍しくイチにとって親しい女の子でも。
イチがドリに話しかけたとき。三人でいることを受け入れたとき、イチはドリを選んだのだとタロは思っていた。きっと、ドリもそう感じていただろう。
なのに。
わからなかった。
そもそも人間に分かるものなど一つもないとタロは思っている。特に自分でない誰かを理解するなんてことは、あまりにも儚い幻想だ。分からないことについては悲観も諦めも抱かなかった。ただイチと、話し合いたいと思った。
「なんでイチがいないの。」
ポツとドリが呟く。高いその声は、ざわついた朝の空気に混ざることなく、タロの耳によく届いた。
「さァ。」
自分でも驚くほど返答は素っ気なかった。ドリの細い眉が歪み、大きな目がタロを睨みつける。だからといって、不満を口に出すわけじゃない。何も言わない。言わなくともその顔つき一つで周囲が動くと思っているのだろう。
「来いって言って。」
「アイツ、ケータイ持ってない。」
「家に。アタシは来たのに、イチが来てないなんてズルイもの。」
すっかり被害者ぶっている。もしかしたら、気持ちを押し付けられたイチの方が被害者であるかもしれないのに。彼女の世界の中心は恋愛中においても彼女でしかないのだろう。どれだけ愛されるか、どれだけ求められるか。重要なのはそれだ。
「自分でかけたら?」
「アタシがかけたら、来ないかもしんない。」
「別に、それで来てないわけじゃないと思うけど。」
ドリはまた何も言わずに、じゃあどうしてという顔。憎たらしさの反面、尖らせた唇を愛らしいと思う。こういった理不尽で時にヒステリックな彼女の言動が、一心に自分のために出ているのであれば、タロはきっと全てを許してしまうだろう。今でさえ、そのほとんどを許しているのだ。許すどころか喜んで受け入れるのかもしれない。
もしかして自分は、ドリのためだけのキリストなんじゃないだろうか。タロは時々そういった空想をする。ゴルゴダの丘で背負い歩くのは彼女の姿をした十字架であり、手のひらに打ち込まれる杭は彼女のエゴイズムである。その空想はいつだって、タロをとても優しい気持ちにしてくれる。例え彼女が誰に恋していたとしても、彼女を全面的に許すのは自分でしかないのだ。
「イチのどこがいいの。」
大きな目が一瞬タロを捕捉して、次の瞬間にはタロの向こう側に思索の画面を広げる。そのスクリーンに映っているのは勿論イチなのだろう。
うふふ、とドリは笑った。困ったことに、とても困ったことに、イチのことを考えているドリはとびきり可愛い。周りの空気までキラキラさせてしまうくらい、彼女の笑顔はキラキラを含んでいる。
「優しいわ。」
シャボン玉を飛ばすくらいの繊細さで、ドリはその言葉を押し出す。好きな相手の形容詞としては月並みなそれを、さも特別なことみたいに口にする。優しいだけならば自分だって優しい筈だとタロは思うけれど、一向にドリの目がタロに向く気配はない。もしかしたら恋というのは、引力なのかもしれない。本来その感情には、何の理由づけもいらないのだ。
「でも。」
ドリの声のトーンが下がった。それに伴ってキラキラの出力も低下。
「でも?」
思わず問うと、ドリはタロに焦点を合わせてきた。少しだけ顔を近づけて、ついついと首を振り左右を確認した。無邪気な距離にタロの心臓は否応なく飛び跳ねる。
「いつも何か隠してる気がする。イチでさえきっと気づいてなくって、それでも隠してるんだわ。」
ドリの言葉に、少しだけ浮き足立っていたタロの心はしんと冷えた。彼女はタロが思っていた以上にイチのことを見て、考えていたらしい。
てっきり彼女の目は、人よりも少し整ったイチの容貌と、万人に平等な優しさしか見えていないものと思っていた。イチは自分の話をしない。ドリやタロの話を聞いて冗談を言ったりはするけれど、自分自身の話をしようとはしなかった。けっして、見せるのを我慢しているのではなく、勿体ぶって隠しているんでもなく、自分が何を持っているかも知らないみたいに。
「寂しいわ。」
オレも寂しいよと言いたかったけれど、止めた。
「そう。」
「そうよ。」
こくん、とドリが頷く。
さらさらと流れた黒髪が肩口に重たく垂れて、彼女の顔を隠した。