ハローベイビィ
彼女――マリヤに会うのはいつも硝子越しだ。
長い黒髪は腰まで届いて、それでも重たい印象はない。
ふっくらとした瞼を彩る長い睫毛に、黒曜石の瞳。それはいつも遠くを見つめていて、ボクが彼女の気を引こうとしたところで、視線がボクの方へ向くことはない。けれど時折彼女の意識がボクに向けられているのが分かる。彼女もボクを気にしているのだ。
花びらのような、小さな朱唇。その口唇はどんな音を紡ぎだすのだろう。天上に歌う伝説の鳥やカナリヤのような声だろうか。
「……マリヤ。」
ああ、なんて甘い余韻をボクの胸中に満たす名前だろう!
大きな牡丹が飾る着物の袖からちらりと覗く指先は、白く、細く、あまりにも繊細で。彼女とボクを隔てるこの硝子板を憎む心とは裏腹に、自分にさえ彼女が壊されることはないという事実に安堵する。
大事な女(ひと)。可愛く愛しい女。天女のような、母のような。
「マリヤ。」
彼女の目は遠くを見つめたまま。
いつだってボクらの距離と世界はこの硝子板を通して隔たっているから、彼女はボクの名前さえ知らない。けれども、ボクはそれだって構わない。この愛しい女(ひと)を見つめることさえ出来るなら、構わないんだ。
不意に、ボクの背後に人が立った。小太りで、見てくれは偉そうに紳士ぶった男だ。脂で固めた髪をしきりと気にしながら、男は値踏みするようにボクとマリヤを交互に見比べた。
「君は――ソレが気に入っているのかい。」
勿体ぶった口調にボクは応えず、次の言葉を待った。決めつけるような余裕たっぷりの話し方が気に食わなかった。パンパンに膨れた頬に埋もれる小さな目が、ボクの沈黙を受けてひょうきんに三日月になる。
「今度、ここを移築しようと思っているんだがね。ここよりもっと街の方にね、大きな土地を手に入れたんだ。どうやら曰くつきの土地みたいで、随分と格安で手に入った。しかし君、この現代に曰くがどうだと騒ぐような奴がいるとは思わなかったよ。考えてもみたまえ。この狭い国だ。しかもあちこちで何度も戦いだって起きてる。それ以上に、何千年も前から人間が住んでいるんだからね。我々は何重にも積み重なった死者の骨の上で生きているんだよ。曰くのない方がおかしいのさ!
まァ、それで、だ。君のお気に入りのそいつをだね、移築にあたって捨てるか売るかしようと思うんだよ。ほうら、そいつは由緒が知れないだろう。今はブランドが大事だからね。マリヤって名前だけじゃあ、駄目なんだ。氏や育ちがね。
そこで、君みたいな子にならそいつを安価で売っても……いや、譲っても良いと思うんだが。」
どうだね、と男は顔を近づけてきた。はァッと吹きかけられた口臭のヤニくささに鼻が曲がりそうだと思ったけれど、我慢して男の目を見つめる。どうだねも何も、ボクはマリヤが欲しくてたまらないのだ。一日中手元において眺めていたい。いや、きっと一生見つめていたって、ボクはその人生をまるで小学生の夏休みのように短く思うだろう。
「いくらですか。いくらだって出しますッ。」
語尾が情けなく裏返った。肉の中の三日月は、一度くるりと大きくなって、ボクを嘲笑ったように見えた。
男は分厚い口唇(くちびる)をやけにゆっくりと動かして、運搬料とボクの三月分の食費くらいの金額を口にした。しかも自分で運ぶならば、運搬料はなしでも良いと言う。
マリヤのためになら、何だって投げ出そう。
既にそんな覚悟を決めていたボクは、多少拍子抜けしてしまった。けれどもボクの身体は、安価が過ぎるマリヤの値段に対する怒りと、彼女を手に入れる喜びと興奮に、ぶるぶると震えていた。背徳感と背中合わせの歓喜は、とても、甘美だった。