ハローベイビィ
空は今にも泣き出しそうだった。人生の悲哀とか無常とか、はっきりとしない複雑なものをいっぱいに抱えてしまって、動けなくなってる子供みたいに。
ドリは今にも泣き出しそうだった。怒り出しそうにも見えた。取り敢えずさっきの、イチの返事がお気に召さなかったのだろう。普段は明るく快活で、一緒にいてとても楽しい子ではあるのだけれど、思い込みが激しい上に気性も激しい。だからうんざりするくらい疲れるときがある。一旦気に入らないことがあると、まるで今の時期――梅雨の空のようになってしまう。
「ドリ、雨降りそうだよ。」
肩までの髪がズラリと垂れ下がって、ドリの表情を隠している。細い肩がいつになく不安定だ。少しだけ、面倒臭いなとイチは思う。
「ドリ、傘持ってきた?」
ドリは答えない。怒られたり泣かれたりするのは勿論厭だけど、このまま動かないくらいならさっさとどちらかを選んで欲しい。ドリの雰囲気につられたみたいに、胃の底がどんよりと重たくなってくる。あれこれと考えることも億劫になってきて、軽く目蓋を閉じると、ぐらりと眩暈に襲われた。こうしてドリに付き合って動かないでいることを、せめてもの誠実さと取ってはくれないのだろうか。
ギリギリの際どい均衡をなすオブジェ。
もう崩してしまいたい。
どうしてこんなことに、とは思わなかった。予感はあったし、ここ数日の彼女の行動はイチの警備システムにきちんと引っかかっていた。だからちゃんと準備をした。ドリの好意を断る準備。否、違う。彼女と同じだけの好意の要求を、断る準備だ。
恋っていうのは難しい。好意を示すだけなら、与えるだけなら誰だって厭いはしないだろうけれど、見返りを必要としない状態を恋とは呼ばない。蝉のように長い長い時間を待つことができても、やっぱりいつか訪れる夏を夢想するものだからだ。特に十代の恋は肉欲と身勝手な恋慕がごちゃ混ぜになって気持ちが急いて、欲しがるばかりになってしまう。どこまでも恋のままで愛が追いつけない。
「僕持ってるから、帰ろう?」
足が辛くなってきた。ふくらはぎがじんじんしてくる。どうしてドリは平気なんだろう。体中にまとわりつく重たい感情に後押しされて、イチは一歩踏み出した。ドリがキッと顔を上げる。目の縁が赤い。潤んだ目で睨み付けられた。
「どうしてそんなこと言えるのよぅッ!」
尻上がりに高くなった語尾が、キンキンと部屋の空気を奮わせた。
「ドリは、大事な友達だから。」
最初、ドリの言っている意味が解らなかったから、慎重に言葉を選んだ。口に出してみるとあまりにも的を得ないセリフだと思った。大事な友達だから。それは理由に足るんだろうか。納得してくれるだろうか。イチは恐々とドリの様子を窺う。またダンマリに入られては敵わない。
ドリが吊り上った目を少しだけ和らげる。彼女の心には納得するものがあったらしい。
アタシ、努力するわ。
小さくドリが呟く。
けれど、ドリが持っている恋人同士になるという選択肢を、イチは端から持っていないのだ。努力したって多分何も動かないし、何も変わらない。残っているのは、友達でいるか、これから先無関係になるか、どちらかだ。しかし後者を選んでしまうのは、イチの良心が咎める。だからドリには、友達でいて欲しい。
「傘、置いてくよ? 明日でも返してくれればいいから。」
ドリの呟きから間は十分にあって、今更聞こえなかったふりも無理だろうけど、彼女の立っている場所から二つほど離れた机に傘をかけて教室を後にする。背中で感じる気配はかすかだ。それでいてイチの動向を、息を殺して窺っている。
窓の外は、破裂しそうな灰色の雲。
なるべく早足で、ドリから遠ざかった。
ドリは今にも泣き出しそうだった。怒り出しそうにも見えた。取り敢えずさっきの、イチの返事がお気に召さなかったのだろう。普段は明るく快活で、一緒にいてとても楽しい子ではあるのだけれど、思い込みが激しい上に気性も激しい。だからうんざりするくらい疲れるときがある。一旦気に入らないことがあると、まるで今の時期――梅雨の空のようになってしまう。
「ドリ、雨降りそうだよ。」
肩までの髪がズラリと垂れ下がって、ドリの表情を隠している。細い肩がいつになく不安定だ。少しだけ、面倒臭いなとイチは思う。
「ドリ、傘持ってきた?」
ドリは答えない。怒られたり泣かれたりするのは勿論厭だけど、このまま動かないくらいならさっさとどちらかを選んで欲しい。ドリの雰囲気につられたみたいに、胃の底がどんよりと重たくなってくる。あれこれと考えることも億劫になってきて、軽く目蓋を閉じると、ぐらりと眩暈に襲われた。こうしてドリに付き合って動かないでいることを、せめてもの誠実さと取ってはくれないのだろうか。
ギリギリの際どい均衡をなすオブジェ。
もう崩してしまいたい。
どうしてこんなことに、とは思わなかった。予感はあったし、ここ数日の彼女の行動はイチの警備システムにきちんと引っかかっていた。だからちゃんと準備をした。ドリの好意を断る準備。否、違う。彼女と同じだけの好意の要求を、断る準備だ。
恋っていうのは難しい。好意を示すだけなら、与えるだけなら誰だって厭いはしないだろうけれど、見返りを必要としない状態を恋とは呼ばない。蝉のように長い長い時間を待つことができても、やっぱりいつか訪れる夏を夢想するものだからだ。特に十代の恋は肉欲と身勝手な恋慕がごちゃ混ぜになって気持ちが急いて、欲しがるばかりになってしまう。どこまでも恋のままで愛が追いつけない。
「僕持ってるから、帰ろう?」
足が辛くなってきた。ふくらはぎがじんじんしてくる。どうしてドリは平気なんだろう。体中にまとわりつく重たい感情に後押しされて、イチは一歩踏み出した。ドリがキッと顔を上げる。目の縁が赤い。潤んだ目で睨み付けられた。
「どうしてそんなこと言えるのよぅッ!」
尻上がりに高くなった語尾が、キンキンと部屋の空気を奮わせた。
「ドリは、大事な友達だから。」
最初、ドリの言っている意味が解らなかったから、慎重に言葉を選んだ。口に出してみるとあまりにも的を得ないセリフだと思った。大事な友達だから。それは理由に足るんだろうか。納得してくれるだろうか。イチは恐々とドリの様子を窺う。またダンマリに入られては敵わない。
ドリが吊り上った目を少しだけ和らげる。彼女の心には納得するものがあったらしい。
アタシ、努力するわ。
小さくドリが呟く。
けれど、ドリが持っている恋人同士になるという選択肢を、イチは端から持っていないのだ。努力したって多分何も動かないし、何も変わらない。残っているのは、友達でいるか、これから先無関係になるか、どちらかだ。しかし後者を選んでしまうのは、イチの良心が咎める。だからドリには、友達でいて欲しい。
「傘、置いてくよ? 明日でも返してくれればいいから。」
ドリの呟きから間は十分にあって、今更聞こえなかったふりも無理だろうけど、彼女の立っている場所から二つほど離れた机に傘をかけて教室を後にする。背中で感じる気配はかすかだ。それでいてイチの動向を、息を殺して窺っている。
窓の外は、破裂しそうな灰色の雲。
なるべく早足で、ドリから遠ざかった。