珈琲日和 その1
今まですごくモテた時期だってちゃんとありますし、興味本位も含めて色々な女性と接しています。
余談ですが、人にはモテる時期が人生に2回あるそうです。
僕はその2回ともすっかり使い切ってしまった実感があります。なので、そう簡単に落ちません。そう簡単に立ちません。
彼女はというと、そんな話はどこ吹く風で、いつも無邪気そのものでした。まぁ、30代のおじさんからは見えない部分もたくさんあったのかもしれませんが。いいのです。女という生き物は、好きな男の前では可愛いもの。男が好きな女に感じることは時間であり、空気であり、優しさであり、愛おしさであり、気持ちよさであり、娘であり、妹であり、ペットなのです。
僕は彼女が大好き。
彼女も僕を好きなはずです。多分。
「誰にでもそんな自信たっぷりの事を言っているの?」
彼女は呆れたように言ってきました。
「別に自信なんてないよ。ただ君の事が好きなだけだよ。」
僕がそう言うと、必ず彼女は頬にキスしてくれました。男は好きな女を美化し、女は好きな男を甘やかす。それで良いのです。そうじゃなきゃ、ロマンなど有り得ません。
彼女は、そんな僕のロマンを粉々に打ち壊すようなことを時々口にしました。
「私は不幸せな女だと思う。多分これから先も。あなたは他の人の方が幸せになれるわ。」
冗談か本当か。
悲しいかな僕は、夕飯用の大きな鍋に今日中に使わないと腐ってしまう明らかに組み合わせの悪い食材を入れて、それが決して美味しくならないと解っていてもなんとかしようと一生懸命に色々調味料を入れて引っ掻き回しているような気持ちになるのです。
虚しい。
そして、自問するのです。その悲しさは自分の意志か?と。
それでも、お構いなしに世界は毎日回り、僕の喫茶店もせっせと営業し、週に1回休みます。彼女は週に5日来て、週に1回は2人でデート。
2年が過ぎました。
だのに相変らず僕と彼女は仲良し。相変らず手を繋ぎ、相変らず世界は美しく映り、彼女の美しさも相変らずでした。それでいいのです。
ある晴れた日、唐突にそれは訪れました。
「どこか、旅行に行きたいの」
「どこに行きたいの?」
「寒い所。雪がいっぱい降っていて、一面真っ白な所。」
ちょうど季節は冬だったので、雪の降り積もる所を探すのに苦労はしませんでした。ということで、彼女と彼女の息子と3人で北海道の釧路に行く事になりました。
行くのなら、2人で行くべきだと世間ではご丁寧なアドバイスをくれますが、僕は彼女に似ている彼女の息子が好きでした。
彼は、とても物静かでしたがいつも微笑んでいて、僕たちは色んな話をたくさんしました。その彼が、旅行に行く前日に、僕の店に珍しく1人で来たのです。
「最近、母の様子がおかしいんです。ぼんやりしていてご飯もろくに食べずに外ばかり見ています。」
僕はというと、完全に旅行気分が盛り上がって準備万端だったので特に深く考えませんでした。
「大丈夫。きっと明日が楽しみで仕方ないんだよ。忘れずにスノーブーツを履いていくんだよ。」
そんな返しをしたと思います。なにしろ僕といる時の彼女はとても幸せそうに見えたからです。最近は、彼女の空間に引っ張られることもなくなっていました。彼女はもう「不幸せな女」なんて自分で言うことはしないだろうと思っていたのです。
けれど、それは僕の勝手な思い込みでした。
次の朝、予定通り僕達3人は北海道に旅立ちました。
真冬の豪雪地帯への旅行はなかなか順調にはいかず、悪天候で飛行機はなかなか着陸できず、やっと空港に降り立ったころには辺りは真っ暗でした。
そこからは、ようやく捕まえたタクシーで予約したホテルまで移動することになりました。タクシーの窓越しに外を見てみましたが景色もなにもなく、一面真っ白。おまけに吹雪いているので雪に閉ざされ進んでいるのか止まっているのかすら定かではありません。今がどこで、方角はどっちなのか、まったくわからずこのまま遭難してもおかしくないように思いました。
彼女のほうを見ると、鼻までマフラーを引き上げ疲れたのか瞼を閉じてまんじりともせずに座っています。その隣では息子が窓ガラスに息を吹きかけて、外の雪を溶かそうとしているようでした。僕は雪国に来たのは生まれて初めてでしたが、なぜか知っているような気がしてしょうがなかったのです。どこでだったかを思い出そうとしているうちに、優秀な雪国のタクシー運転手さんは遭難せずに見事に予約していたホテルの玄関に車体を滑り込ませました。
運転手さんに感謝をして車を降りると、寒さと疲労でヘトヘトだった僕たちは、チェックインを済ませると即座に温泉に飛び込み、夕飯をかっ込むと歯磨きもそこそこに眠りに落ちたのです。
どのくらい寝ていたのかはわかりません。人の気配がしたので、僕はふと目を覚ましたのです。
暖房が効いているはずの部屋にはひんやりとした空気が漂っていました。
隣を見ると、そこで寝ているはずの彼女の姿がありません。
トイレかと思い、部屋にある洗面所とトイレがある方を見ましたが、暗く物音1つしませんでした。胸騒ぎがしました。
僕は、浴衣の上にコートを羽織ると、ぐっすり眠っている息子を起こさないようにもう一枚布団をかけてやり、足音を忍ばせて部屋の外へ出たのです。
ホテルの長い廊下に規則的に並んだ窓はやけに明るい白さでした。
月が出ているようなので、窓際に寄って空を見上げました。明るい満月が空にかかっています。月の位置から、真夜中を過ぎたあたりなのが推測されました。
こんな時間に、一体彼女はどこに行ったんだろう?
朱色の絨毯が敷き詰められている廊下を常夜灯が照らしていましたが、ひっそりとしていて誰の気配もありません。僕はエレベーターで一階に降りました。フロントや待ち合いロビーは電気が点いていましたが、人の気配はありませんでした。どこもかしこも静まりかえっています。耳が痛くなりました。
あまりに静か過ぎたのです。
僕達が眠りにつく前に、社員旅行らしき家族連れの団体がたくさん風呂から上がって大きな声で騒いでいたのを思い出しました。それに、各部屋を除いたホテル全体には静かにクラシックもかかっていたはず。何より、いくら夜中だからといってフロントや夜回りする人がいても良さそうなもんだと考えながらペンギンのような足音をたてて歩き回りました。
時々、照明が電気特有のジィーっと微かな音を立てる以外は沈黙に包まれています。
なにかの本で、雪は音を吸い込むのだと書いてあったのを思い出しました。それともこれは僕の夢?
突如、ロビーの大時計が静かに鳴り始めました。
ボーン ボーン ボーン 4、5、6、7、8、9、10、11、12、13
確かに13回鳴ったのです。
どういうことでしょう。僕は未だかつて12回以上鐘が鳴る時計は目覚まし時計しか知りませんでした。
広間にあった古い大時計は、たしかドイツ製のゼンマイ式ホールクロックだったはず。
このホテルに着いてすぐ、古いのに丁寧に手入れされていて綺麗だと言って疲れた目を輝かせた彼女が眺めていると、ホテルの支配人だと思われる男性が来て、この時計は何十年もの間一分足りとも狂ったことはないのですと言っていたのです。