珈琲日和 その1
もし仮に、今が夜中の1時だとしても、午前1時はやっぱり1回のはずで、それに13時は昼間の1時。外はこんなに綺麗な月夜なのに有り得ない!
僕が時計の前に行き、目を凝らして文字盤を見ようとした瞬間、玄関ポーチの両扉が音もなく開いて外の月の光が挿し込みホテルの灯りが消え失せたのです。
驚いた僕は目を細めて、明るい月光に自分の目を慣らそうとしました。
ようやく慣れた目に映し出された青白い雪原に一筋の小さい足跡を認めた僕は、胸が凍り付くようでした。まさか。
僕は急いでそこにあった長靴を履くと走り出しました。
彼女は一体どこに行こうとしているのか、それとも、これは僕の夢なのでしょうか。もし夢なら、夢のくせにすごく寒い。
慣れない雪に足を散々取られながら、転がるように走りながらふと気付いたのです。
この白い景色は彼女のあの空間に酷似していました。こんなに凍てつくように寒くはありませんでしたが。だから、どこかで見たような気がしたのです。
恐ろしい予感が僕の胸を締め付けました。
凍てつく空気を思いっきり肺に吸い込み、足下を取られながらの全力疾走。強烈な喉の痛みと感覚がなくなっていく手足に引きずられて今にも倒れそうでした。
ようやく彼女の姿を見つけたときには、汗だくで意識も朦朧としていました。なんとか大声で叫んだつもりでしたが、まるで野獣みたいな声が出てしまったのです。
彼女は、その声にビクッと立ち止まると怖々振り返りました。そして、僕を認めると静かに微笑んだのです。
僕は彼女に駆け寄ると抱きつきました。
凍てつく寒さと体の暑さ、汗と息苦しさと咽の痛さ、手足のかじかみで僕は涙さえ流していたと思います。そんな僕を優しく抱きしめながら、彼女は静かに言いました。
「ありがとう。私はあなたに出会えて、一緒に時を過ごす事が出来て幸せだったわ。あなたといた私は不幸せな女ではなかった。」
僕は涙を流しながら頷きました。それしかできなかったのです。
「でもね、私はやっぱり不幸せな女なの。今夜あなたと別れなければいけないから。大好きなあなたのそばにずっといられないのは辛いわ。けれど仕方がないの。」
彼女は、汗と涙でべとべとの僕に優しくキスをしました。それは、今までで一番甘くて柔らかいキスでした。
「今までありがとう。さようなら」
再び僕が目を開くと、遥かに続く雪原のどこにも彼女の姿はありませんでした。
僕は寒さと疲労でその場に崩れ落ちました。冷たくて美しい真っ白い雪がチクチクと僕を刺し、指の先から凍っていくのを感じましたが、もうどうでもいいと思っていたのです。
どうせ、彼女は帰らない。僕は静かに瞼を閉じました。
次に気がつくと、僕は病院のベッドの上で寝ていました。
ベッドの脇には、彼女の息子が心配そうな顔をしてパイプ椅子の上に体育座りをして僕の顔を除きこんでいます。
あれは夢だったのか? 夢じゃなかったのか?
僕が問おうとする前に、彼が口を開きました。
「ホテルの玄関の扉が全開になっていたから外に行ったとわかったんです。もう早朝だったのでホテルの人達と手分けして探しました。あなたはすぐ見つかったのですが、母がいません。足跡すらないのです。母がどこへ行ったか知りませんか?」
僕は部屋で目を覚ましてからの出来ごとを全て彼に話しました。彼は身じろぎせずじっと耳を傾け、聞き終わるとぎこちなく少し笑ったのです。
「きっと母は母だけの世界に帰っていったんですね。いつもどこか遠くを見ている人でした。悲しいけど、なにとなくいつかこんな日が来る気がしてました。」
彼は、それだけを言うと声を上げて泣き出したのです。僕は号泣する彼の頭を撫でながら、ぼんやり考えていました。彼女はかぐや姫だったのか?それとも雪女?
東京に帰ると、息子は彼女の親元に引き取られ、僕は彼女なしのいつもの生活に戻りました。不思議なのは、今まで人気者だった看板娘の彼女のことを誰もなにも言わなったのです。まるで最初からいなかったみたいに。ショッピングモールの完成にはまだ期間があったため、僕の喫茶店は、またスタッフ募集の張り紙を出しました。
お話はこれでお終いです。
初めに彼女を「哀れな女性」だと言いましたが、今改めて考えてみても彼女は「不幸せの女」とはやっぱり言い難く、かといって「哀れな女性」でもなかったような気がします。なぜなら彼女は最後別れる瞬間に、とびきり幸せそうな顔をしていましたし、自分を例え一瞬でも幸せだったと認めたのですから。
人は誰でも自分の幸せを求めます。
それは当たり前の権利ですし、良いことでしょう。なにが幸せか不幸せかは、本人が決めることなので他人がとやかく言うことではありません。ただ、そのために誰かを傷付けたり悲しませることをしてしまうのはいかがかと僕は思います。
彼女は、自分の幸せのために自分の息子を犠牲にしてしまったことに気付いてくれるといいのですが。皆さんはどう思いますか?
では又。