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珈琲日和 その1

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僕の店のこだわりは、お客様の好みの珈琲豆を挽きサイフォン又はドリップを使い、それぞれのお客様の好みにあった珈琲を入れることでした。ですが、僕は新しい物好きなので定番の豆の種類は変えませんが、入れ方や挽き方は色々チャレンジしたりします。そのやり方が好評であれば定着していきますし、ダメなら次を模索するというスタイルです。なので、手挽きミルも電動プロペラ式ミルもなんでも使いますし、偶然見つけた道具やお客様がお持ちになった面白い道具があればすぐ使います。そんな、こだわりがあるようでないようであるスタイルです。
また、メニューの1ページにはチョコレートの名前がずらっと並んでいました。
僕は、チョコレートも珈琲豆同様にいささかうるさい方で、珈琲とチョコレートは、ワインとチーズのようなマリアージュな関係だと確信していたからです。
彼女は、そんな複雑なオーダーを取るために、必死で珈琲の種類や煎れ方、其々の特徴や味や香り、其々のチョコレートの由来などを猛勉強しているようでした。出勤する度に、説明できることが増えていったいるのが日頃の努力を物語っていました。
時間が空くと、僕は彼女をカウンターに座らせて珈琲を入れたものです。
ブラックが苦手だった彼女が、おいしいと言って飲んでくれるようになったのがいつからだったかまだ覚えています。それなのに、いつから男女の関係になったのかを覚えていないのは、なんとも不思議なことです。

仕事に慣れてくると、僕らはふざけ合ったり意地悪し合ったりしました。
理想や夢の中で生きてない彼女は、僕をいちいち腹立たせたり苛々させたりするのです。
「君を憎たらしく思う事があるよ」と、僕は彼女に向かって口にした事もあります。彼女は知ってか知らずか、「まだ怒ってるの?怒らないで」なんて言ってくるのです。
悲しいかな僕は許してしまいます。
彼女には甘い・・・でも、彼女を好きだから良いのです。
彼女の息子は7歳になります。時々、店に連れて遊びに来ていました。彼女は、離婚をした母子家庭でした。
僕は40前半の中年間近で、彼女は25歳。そんな彼女を世間の男が放っておくはずはないのに、彼女には男の臭いはおろか影すら見えませんでした。僕がただ単に知り得なかっただけかもしれませんが・・・そんな事知りたくもありません。
今の、彼女といる時だけで十分だと思っていました。
一年ほど経つと僕らは2人で、店が休みの日に会って所謂デートをするようになりました。
僕の大好きなあがた森魚さんの歌にある「シベリアケーキにお茶でも飲んで、銀座のシネマに行きたいなぁ」のあれです。自然と回数が増え、行きつけのカフェができました。自分の店以外で美味しい珈琲が飲める店でした。
陽光が燦々と降り注ぐ明るいそのカフェの窓際の席に2人で向かい合って座り、珈琲を飲み時々話をするのです。
知り合いのこと、最近のできごと、昨夜の夢の話、食べもの特にチョコレートの話・・・話が尽きると外を見て、どこかを見て、お互いを見ました。目を合わせて笑い合ったりして、そんな時間を過ごしたのです。
「幸せと不幸せって紙一重よね。光と影みたいなもの。いつも幸せの影には不幸せがある。どうしてなの?」
彼女は、熱い珈琲が入っている白い陶器でできたカップを、うっすらと桜色をした透き通るような両手で包み込むようにして持ち上げました。
「そうじゃないと、バランスが取れないのかしらね。」
2階のカフェで僕たちが陣取った窓ぎわの席からは、街道を彩るさまざまな種類の紅葉樹が色付き始めた様子が一望できました。
話の合間に時折思い出したように外を眺める彼女の横顔を、秋の色彩が彩って、まるで絵画のように美しかったのです。彼女と別れて時が経っても、こうして彼女の横顔だけを鮮明に思い出せるのは、あの秋の日、眺めのいいカフェの窓際の席での記憶があまりに鮮烈だったからかもしれません。
そんな彼女との日々で僕はうっすらと気付いたのです。
彼女が時々、どこを見ているかわからない眼差しをすることを。
時間にすると1分にも10分にもなるのだと思いますが、長い時間じゃありません。けれど、そうしている彼女を見ていると僕を含める彼女の周りは静止していきます。
時間も色も。とても静かに。それまで心地よく店内に流れていたDjango Reinhardtさえ、どこか遠くに行ってしまうのです。透明で青白い空間には僕と彼女だけで、しかも彼女はそこにいるのかいないのか判らない感覚に陥ります。
僕が無理にでも目を逸らすか、彼女がこちらに顔を向けると終わるのです。真っ暗な所で誰かが偶然電気のスイッチを押してしまったというように、急に周りの時間や音や色が戻ります。
とても不思議な時間です。
これは僕だけに起こる事なのかもしれません。
僕の彼女を好きだと思う気持ちに依って起こるのかもしれないと、ずっと思っていたのですが、彼女の息子の言葉を聞いて自分だけではないと認識したのでした。
「母が時々、どこか遠くを見ているのをじっと見てると、なんだか不安で仕方なくなってくるんです。」
スプーンでミルクセーキを突つきながら、彼はぼんやりとこぼしました。
それから、ぽつぽつと話してくれた息子の話を僕なりにまとめてみると、どうやら彼女には知らずに人を、妙な空間か彼女の世界かに連れて行ってしまう不思議な力のようなものがあるようでした。
その空間の中で、自分には不可能なことはないと自信を持ち、変わらずに進んで行けると確信できる人もいれば、不安で怖くて仕方なくなる人もいるらしいのです。けれど、その時間が終わった時、自分はなにをしているのかわからなくなったり、改めて確認したりする一種の麻薬に似ている感覚なのかもしれません。
もちろん、当の彼女は自分のそんな妙な力に気付いてはいないと思います。ただ、僕の推測ですが、その妙な力のようなものが彼女の幸せを妨げ、彼女を「哀れな女」にしていたのではないかと思えてならないのです。
彼女の前の夫がいい例でした。
前の夫は妻子持ちだったようですが、彼女の美しさと不思議な空間に引っ張られ、自分でも訳のわからないままに自信をもって離婚し、彼女と再婚。
ですが、常に彼女と一緒にいたその男は徐々におかしくなっていき、終いには自分のしたことを後悔し、子どもや家族に会いたがっていたらしいのです。そのうちに自分で言ったこともやったこともわからなくなり、毎日浴びるように酒を飲み女と寝まくりほとんど彼女との家には帰って来なくなりました。彼女が妊娠したころには完全に姿を消したそうです。
彼女は、仕方なく実家の近くに移ってきて親の助けを借りながら子どもを育てたようでした。
僕はその話を聞いたときに、可哀相だとか酷いだとかと思う前に、その男の心の弱さに同情してしまいました。
話を聞く限りだと、よっぽど頑固な心の持ち主でないと、彼女の空間に犯され戻れなくなってしまうようでした。
もちろん僕もそんなに強い方ではありません。
優柔不断ですし、女の子の押しにだって弱かったりします。ですが、さすがに30年以上生きていれば、人に対しても自分に対してもある程度のガードが可能になるのも事実。
作品名:珈琲日和 その1 作家名:ぬゑ