10月 白い蝶
冷蔵庫からパンを出して牛乳を飲みながら焼いている間、窓の外を眺めた。外の小さな庭には恭子がせっせと植えた雪柳がペンキを零したかのように真っ白に咲いている。ふと、夢の中の雪柳に包まれたベンチを思い出したが、トーストが焼き上がったので空腹の意識はすぐにそっちに切り替わった。朝ご飯を流し込むように食べながら、ぼんやりと学校の事を思った。
高校はかれこれ2週間程休んでいた。もうすぐ試験があるのに。それに友達と見に行こうって言ってた映画ももうすぐ上映なのに。色々と約束や予定はあったが、それでも今一気力が出て来なかった。葬式も納骨も終わり何もかもが父が不在のまま回っていこうとしている。だのに何か・・何かとても曖昧で気付かないくらい静かな違和感がある。そういうものなのか。
線香の煙が漂う仏壇には祖父母の写真の隣に、新たに父の写真と父の愛用していた眼鏡が置いてあった。落雷した時、父は何故か眼鏡を手に持っていてそれが会社の脇の植木の中まで転げ落ちたらしく、昨日近藤さんが見つけて持って来てくれたのだった。落雷したくせに眼鏡には左のレンズに少しひびが入っているだけで他は何も変化がなかった。
何であんたは無事なのよ。杏は乱暴に眼鏡を取り上げた。
それからダラダラと時を過ごし、昼前になって裕太が心配して杏の家まで迎えに来てくれた。
「別に大丈夫なのに」
「いいじゃん。しばらく顔見てなかったし」
揃って河原まで歩いた。その河原はサイクリングロードと幅の広い散歩道が川を挟んで伸びていて、散歩道の方には等間隔で植えられた桃の木が彼方此方に伸ばした枝に薄ピンク色の角の立つくらいの泡をモコモコ沢山付けて見渡す限り何処までも続いていた。どうして桜じゃなくて桃よと子どもの頃から何度も疑問に思った。絶対に桜の方が見栄えがするのに。桃なんて地味じゃないと言うと、父は笑って桃だけじゃなくて杏も植わっているんだよと答えたのだった。何でもその杏の木の下で、若い頃母とよくデートをしたので産まれてくる子どもが女の子だったら杏とつけようと決めたらしい。
「杏の親父さんさ、向こう岸の散歩道のベンチに座ってたんだぜ」
裕太は幾つかある白く塗られたベンチを指した。夢の中のベンチも白かったけどあれは雪柳に囲まれていたからだろうなと杏はぼんやり思った。何だかどうしてこう夢だか現実だかよくわからない光景が多いのだろう。
そのベンチに誰かが来て座る度、何処からともなく鳩の群れが飛んで来た。鳩の群れは落ちている花弁を舞い上げてベンチの近くに着陸すると、物欲しげに横目でちらちらベンチに座っている人を伺いながらそこらで餌を探す振りをして歩き回った。一定時間うろついて餌をくれないとわかると又何処かに飛んで行った。誰かがあのベンチに座って餌を蒔いているんだ。それにしても鳩は一体何処から見ているのだろうとくだらない疑問が浮かんだ。
裕太と一緒に狭い橋を渡る時に、欄干に無数にかかっている蜘蛛の巣を避けて下の川を覗いた。白い花弁がびっしり引っ付いた石や苔むした岩の間を流れる水の中に小さな小魚がたくさんいた。ここでも誰かが餌をあげているらしく、小魚達は橋の下に列を作って止まって泳いでいて まるで大きな分厚い濁った青緑色のガラスに閉じ込められているオブジェかなにかの様に見えた。今まで気付かなかったけど、こんなに穏やかで平和な景色の中に様々な欲や必死さが入り交じっている。
桃の木は幹が黒茶色いのがコントラストになって増々花がピンクに眩しく見えた。けれど、あまり詳しくない杏にはどれが桃でどれが杏かなんて見分けがつかなかった。散歩道をゆっくり歩いていくとたくさんの人が通り過ぎた。犬の散歩をしている人。花見がてらウォーキングしている老夫婦。マウンテンバイクに乗って走り回る子ども達。蛍光緑のショートパンツを履いて大きいサングラスをかけて走って行くおじいちゃん。よちよち歩きの子どもの手を引く若い母親。それをビデオカメラで撮影している若い父親。色んな人がいるんだ・・・お父さんはこんな景色を一人で見ていたのかな・・・
ふと持って来た父の眼鏡をかけてみた。すると、どろんとした度の強い風景の少し先の木の陰から夢で見た白い蝶が横切ったのが見えた。杏はその木の後ろが見える位置までそのまま歩いて行った。
その木の後ろには雪柳に囲まれた真っ白なベンチが1つあって、いつもと変わらない薄い色のポロシャツにベージュ色のチノパンを履いた父が座っていた。
お父さん・・・
父はいつか見た時みたいに微笑みながら通り過ぎる人を見ていた。何か言わなきゃ。けれど喉が乾燥して声が出なかった。
すると、父が不意に杏の方を見てにっこりと笑った。その顔は眼鏡をかけていなくて生前より目元や口の周りに皺が深く出ていた。いつのまにお父さんはこんなに年を取ったのだろう。杏は父に向かって手を伸ばした。
「おい、杏!大丈夫かよ」不意に裕太に肩を掴まれて杏は我に返り、その拍子に眼鏡が鼻まで一気にずり落ちた。
「え?」
「急にぼんやりして。大丈夫か。熱でもあるんじゃねーの?」
杏は目の前のベンチを見た。そこには誰もいなかった。ただ木々の陰と木漏れ日があたってさわさわと動いているだけで。
白昼夢。杏は眼鏡を外して、そこに座った。勿論父の温もりは感じず、ひんやりとした木の感触が伝わってきただけだった。
「おいおい。大丈夫かあ。何なら帰る?」杏の隣に腰かけながら裕太が心配そうに杏を見遣った。
「ありがとう。大丈夫」眼鏡を握って落ち着こうとした。
「心配だなぁー」
「ねぇ、裕太。 あのさ・・・」
「ん? どうした?」
杏は今見た事を話そうと思ったが、どういえば良いのか上手く言葉が出て来なかったので、そのまま黙りこくってしまった。それが尚更不審に思ったのか裕太は増々心配そうに顔を覗き込んできた。
「なぁ、さっき、白い蝶が飛んでたの見た?」
「え、ううん」
「俺ずっと見ろって言ってたのに、全然違うとこ見てんだもん。あれきっと今年一番のモンシロチョウだぜ。それにしても、杏の親父さんはここに座ってどんな事を考えていたんだろうな」雪柳を弄りながら裕太は独り言のように言った。
すると突然、強い風が吹いて来て花弁を滅茶苦茶に舞い上がらせた。人々は驚いて立ちすくみ、砂やゴミが目に入らない様に目を瞑って手で顔を覆った。狂ったように枝を振って散らされて飛び交う白い花弁が不思議に眩しかった。白い花弁は蝶のように空に舞い上がっていく。杏は目を瞑る事も忘れてぼんやりとそれを見つめていたが、思いついて立ち上がった。
「ごめん!あたし帰る」
「唐突だな。おい。ま、いいけどさ。送っていくよ。」
「ううん。大丈夫。裕太ありがとう!」
「お、おう。また電話しろよー」
「うん!」何を思ったのか、杏は風に押されるように花弁を蹴散らしながらそのまま走り去って行った。
息を切らせて家に着くと、恭子が帰って来ていた。
「あら。おかえりなさい。いないと思ったら。何処に行ってたの?」
いつもの調子で訊ねてきた母に杏は思いっきり抱きついた。
「お母さん!お母さん!」
小さな子どものように興奮している杏に驚いた恭子は吃驚して訊ねた。