10月 白い蝶
「え?」謝る夫の声が打って変わって変に切実過ぎて、不審に思った恭子は目を開けた。けれど、そこには夫の姿はなく、ただ夕方のオレンジ色の光が窓から差し込んでいるばかりだった。夫が座っていた場所も最初からそうだったように皺1つ寄ってはいない。どういう事なのか。ついさっきまで自分の頬を優しく撫でていた夫の手の温もりすらまだ在り在りと思い出せるのに一体何処に行ってしまったのだろう。どうしていなくなったのだろう。恭子は立ち上がって夫を探し始めた。
「あなた、何処に行ったの?」
けれど、何処にも夫は見つからなかった。それどころか、夫が持って帰ってきただろう鞄や靴すらもなかった。どうしてなのかと部屋を探り続けると、夫の鞄は綺麗に拭かれて押し入れから、靴はきちんと磨かれて靴箱の中から見つかった。恭子は夢を見ていたんだとやっと気が付いた。夫が帰ってきたあれこそが夢だったのだ。いる筈ないとわかってはいても、さっきの夫の温もりが残った頬を抑えて部屋を見回すしかない恭子の目から大粒の涙が溢れ出した。自分はまだ何処かで信じられなくて夫の帰って来るのを待っていたのか。これの全てが夢だと思っていたかったんだと気付いてしまい堪え切れずに嗚咽を漏れる。
もう、あの人はこの世界の何処を探しても、いないのに・・・!
永遠にいなくなってしまったのに・・・!
ずっと受け入れる事が出来ずに溢れ出す事もなかった真実を思い知った恭子はソファーに突っ伏して思いっきり泣いた。
*
「・・・杏、こっちだよー」
途切れ途切れに聞こえてきたのは誰かの声だった。何処かで誰かが呼んでた。杏は耳を澄ませた。聞き覚えのあるこの優しい声はお父さんだ。お父さんがあたしを呼んでいる。声の主の場所を探して、杏は一生懸命周りを見渡した。そこは裏にある大きな桃の木の植わっている公園で空は青く何だか眩し過ぎてよく見えなかった。桃と杏の背丈くらいの雪柳が満開に咲いていた。
「・・・杏、こっちこっち」さっきより輪郭を持った声のした方に振り向くと、父が雪柳に囲まれた白いベンチに座っていた。
杏は急いで走って行って父の隣に座ろうとしたが、どうしてだか上手く登れない。見兼ねた父が杏を軽々と抱き上げて膝に座らせてくれた。小さい時、よくこうやってお父さんの膝に座ったなと思い出すと同時に、あぁ今あたしは小さくなっているんだと納得した。父の膝は高いから色んな物が見えるし、座り心地が良くて大好きだった。振り仰ぐように見上げた父の顔はぐんと若くなっているし、自分の足は可愛らしく小さな靴を履いている。
「見てごらん 杏」父が指した方向を見ると雪柳の結晶で出来たかのように白い羽根をした蝶が飛んでいた。
「チョウチョ!」
「珍しい蝶だね 何て言う蝶だろう」
蝶は何かを伝えようとでもしているかのように怪しく2人の前を浮遊している。不思議な事には風が強い筈なのに蝶は全く動じずに優雅に舞うように飛んでいるのだ。目の錯覚なのか、それとも光が眩しいせいか、蝶は大きくも小さくも見える。
「キレー!」
「よし お父さんが捕まえてこよう」父はそう言って杏を下に降ろした。その目の前を揶揄うようにして蝶は行きつ戻りつしつつ通過していく。杏が手を伸ばしても透けるようにして遠ざかる。本当に捕まえられるのか心配になった杏は父を見上げた。父はそれがわかったのかにっこりと笑うと杏を見下ろして「任せとけ!お母さんのお土産にしよう」と言った。
「うん」
父は蝶の舞っている桜の木の下に慎重な足取りで近づいて行った。すると不意に強い風が吹いてきて桃と雪柳の花弁が一斉に砕け散ってきた。その白と薄桃色をした花弁は混ざり合い、まるで吹雪みたいに空に巻き上げられていく。その勢いに見とれた杏は父から視線を外して空を見上げた。何処にそんなに花弁が隠れていたのだと思わせるくらいに次々と花吹雪は止まらない。
「杏ー・・・」
風の音に紛れてしまうくらい微かに父の声がしたので、慌てて桜の木の方を見るとそこに父の姿はなかった。さっきまでいた筈だ。何処に行ってしまったのだろう。杏は辺りを駆け回って父を探した。それを妨害するかのように花弁が激しく吹き付けてきて何も見えなかった。口にも花弁は入り込んできて声すらも出せない。杏は手探りで必死に父を呼んだ。
「お父さーん! 何処ー」
群青色の夜の帳に沈んで暗くなった部屋で、杏は静かに目を開けた。
恭子と言い争って、部屋に逃げ込みそのままベッドで泣き疲れて眠ってしまったらしい。枕が涙と鼻水でぐっしょりだった。それにまるで頭から水を被ったように汗をかいていた。手の甲で額の汗を拭った。夢を見てたんだ。子どもの頃の夢。どんな夢か思い出そうとしなくても、ついさっき起きた事のようにしっかりと覚えている。お父さんの夢・・・杏は起き上がって机の上から携帯を手に取った。家の中はやけにしんとしている。恭子ももう寝たのかもしれない。アドレスから裕太に電話する。
「もしもし。あたし」
「おう・・・行こっか?」裕太は即座にそう答えた。どうやらずっと待ち構えていたらしいのがわかっておかしかった。
「ううん。今日はいい。でも、明日会いたいの。昼間」
「明日はちょうど開校記念日で休みだ。何処に行く?」
そうか。この間まで開校記念日が待ち遠しいなんて呑気に思っていたのに、休んでいる間にもう訪れたのだと、時間が経過しつつあるのを実感した。何故か自分の中ではそんなに日数が経過している感覚がなかったから。
「河原で」
「わかった。今は花も咲いてるしな」
裕太が一生懸命気を使っているのが痛い程わかる。以前には気付かなかった色んな人の優しさに自然と気付くようになった気がするのはどうしてだろう。それも父がいなくなった事と関係しているのかな。色々考えられないのに無理に頭を動かして考えていたら不意にお腹が減ってきた。何か食べようと思った杏は足音を忍ばせてリビングに向かった。リビングは暗かったが、電気をつけると恭子が杏と同じように泣き疲れてソファーで眠っているのを発見した。突如こんな形で連れをなくしてしまった恭子は自分なんかより何倍も辛かっただろうに、そう言えば父がいなくなってから恭子が泣いたところを見ていない事を今更ながら思い出して杏は起こさないように細心の注意を払って恭子の上に静かにブランケットかけた。よく父がかけていたブランケットは、広げるとまるでついさっきまで父がかけていたみたいに父の臭いがした。微かに恭子が安心したような頬を緩めたように見えた。お母さんも泣きたかったんだね。リビングの電気を消してキッチンに行きシンクの上の小さな蛍光灯を点け、何か食べるものは無いかと冷蔵庫を漁ったが最近買い物にも行けてない為これと言ってすぐに食べられそうなものは見つからなかった。仕方なく、朝の食べかけのぱさついたパンに苺ジャムを塗って牛乳と一緒に食べた。
次の朝、杏が起きると恭子はとっくに何処かに出掛けていてもういなかった。食卓には朝ご飯がちゃんと用意されていた。