10月 白い蝶
「どうしたの? なにかあったの?」
何故か涙まで出てきてしまう。どうしてかわからないまま杏は泣きながら話した。
「さっきね、河原のベンチにお父さんがいたの!あたしを見て笑ったの!」
どうしてわからなかったんだろう。父はあそこに座ってずっと自分が来るのを待っていたような気がして堪らなかった。
「杏・・・」恭子は杏の頭を撫でながら口籠った。
「・・・きっとお父さんは、心配で仕方なかったのね。だから会いに来たのよ。何もかもいきなりだったし」
「ねぇ、どうしてお父さんは死ななきゃいけなかったの? どうしてお父さんじゃなきゃいけなかったの?」
どうして自分は父ともっと一緒にいなかったんだろう? どうして一緒に河原のあのベンチに座らなかったんだろう? 杏は頭の中でなにかが爆発して全てを潤す様に流れ出したのがわかった。胸が締め付けられる様に苦しくなった。
「私にもどうしてかまではわからないわ。でもね、きっと避けられようもないもので、それはきっとお父さんじゃなきゃいけなかったのよ。運命みたいなものなんじゃないかな。だから私は仕方ないと考える様にしたわ。だって、後悔しても泣こうが喚こうがもうお父さんは戻ってこないんですもの」杏は目を瞑り頭を振った。
「杏の気持ちはわかるわ。お母さんだって同じですもの。でも、悲しいけど乗り越えていかなくちゃいけないのよ。悲しんでいたってお父さんは心配するだけだから。私たちが笑って楽しくやっていければお父さんも安心してきっと成仏出来るわ」恭子は俯いて泣いている杏を真正面から見つめて話続けた。
「それでねぇ、杏。私、働こうと思ってるのよ」
「大学時代の友達が英会話教室を開いてて、そこで小さい子達のクラス担当で働かないかって誘われたの」
「・・・でも、お母さん、英語なんて出来るの?」
「あら。お母さんこう見えても大学生の頃は英語が一番の得意科目だったのよ。だいぶ錆付いてはいるけど、磨けばまだまだいける筈よ」
「そうなの?」
「そうよぉ。だからこの家にずっと住めるわよ。大丈夫」
「本当に?!良かったぁー」ようやく杏は笑った。
「任せといて。ここはお父さんの思い出が詰まった家だから、簡単には手放したくないの。だから杏も学校の勉強しっかり頑張らないとね」
「そういえばもうすぐ試験だって裕太が言ってた」
「学校、行けそう?」
「うん。明日から行くよ」
「無理しないでね。よし!じゃー今晩のご飯は杏の好きな目玉ハンバーグに決まりね」
「やったぁー!」本当はそれは子どもの頃の好物で、今はダイエットだとか何とかですっかりどうでもよくなった好物だけど、この時ばかりは素直に嬉しかった。母の思いが。父の愛情が。色んな人の思いが。ただ素直に嬉しかった。
「頑張ろう」
「うん」恭子は杏を強く抱き締めた。あぁ、今確実になにかが前に進んで全てが新しく動き始めたんだと杏は解った。窓の外で嬉しそうに揺れている雪柳から花弁にも見える白い蝶がそっと入ってきて杏の手の中の眼鏡にとまって溶けるように消えた。そして、彼は微笑ましい2人の家族の様子をソファーに腰掛け目を細めて嬉しそうに見守っていたが、徐に眼鏡をかけて静かに立ち上がった。