10月 白い蝶
「ない」ただ一度だけ友達と河原を通った時に、お父さんがぼんやりとベンチに座っているのを見た事がある。
まるでリストラされた人みたいに頼りなく見えて、何だか知らんぷりをして通り過ぎてしまった。友達にどやされるのも恥ずかしかった。あの時、お父さんはこっちを見ていたから気付いていたと思う。少し微笑んで寂しそうにこっちを見ていたっけ・・・それ以降、1人の時以外は何だか嫌だからあの河原は敢えて避けて通る様にしている。
「杏の親父さんさ、缶コーヒー片手にずっと座ってたなぁ」
「あぁ、お父さんぱっとしなかったからね」
「でも、いいじゃん。五月蝿い親父よりマシだよ。うちの親父なんか母ちゃんよりうるせーよ」
「もう、いないけどね」切り捨てるように即答すると、裕太は項垂れた。杏は足下に落ちている石を無理矢理穿り返して靴の先で遠くに蹴った。さっきまで出ていた太陽が雲に隠れてしまい、まだ肌寒さが残る風が吹いてきて杏の制服のスカートを揺らした。裕太はしばらく項垂れていたが、ふと呟くように口を開いた。
「・・・なあ、どうして杏の親父さんは、あんな風に死ななきゃいけなかったんだろうな」
「知らないよ。運が悪かったんじゃない?」杏は大して考えもせず浮かんだ言葉だけを選んで口にした。
「だって恐ろしく稀な確率だぜ。雷に打たれても軽傷で済んでる人もたくさんいるのに」
「お父さん心臓弱かったらしいし。そういう運命だったんじゃないの?」
「だって、なんか悲しいじゃん。杏の親父さんあんなに良い人だったのに、こんなにあっさり死んじまっていいのかよって」
「仕方ないじゃん。きっとあっと言う間だったから走馬灯も何も考える時間なかったと思うよ」事務的に答えながら、冷たい娘だなと思ってしまう。ずっと一緒に暮らしてきて、こんな時にもそんな事しか言えないんだから。でも、仕方ないって思うしかないじゃない。どんなに悲しんでもお父さんは生き返らないんだから。そう思うしかないじゃない。
「そんなの、余計悲しいじゃんか・・・」泣きそうな顔をしている裕太の方がよっぽど家族的だと思う。
「もう行くね。お母さん、一人だし」そう言ってブランコを一漕ぎすると、勢いよく飛び降りた。
「わかった。ごめん」顔を上げた裕太が申し訳なさそうに杏を見た。
「何で裕太が謝るの」
「だって俺、なにか何の役にも立たなくて・・・」
「いいよ。又電話したら会ってよ」
「任せろ。いつでも電話しろよ」
「じゃね」裕太は精一杯笑いながら手を振って見送ってくれた。これじゃあどっちの親が死んだのかわかりゃしない。でもね裕太、きっと何も変わらないよ。ただお父さんがいなくなっただけだし。今までだっていてもいなくてもあたしは気にしなかったから。だから思っている程すぐに毎日に埋まっちゃう気がする。そう思っていた。けれど、現実はそうではなかった。杏の見えない所でしっかりと父を含み込んだ生活が成立していたのを身を持って思い知らされる事になった。何しろ横井家を支える大黒柱、稼いでくれる働き手がいなくなったのだから。父がいなくなった事で杏の家は危機的状況に見舞われたのは言うまでもなかった。恭子は大学を出て就職もしないですぐ主婦になってしまったので、今更働き出すのも年齢的に色々と厳しかった。更には家のローンはまだ残っている。父の遺族年金を使っても、今までの生活にはまだ足りないぐらいだった。急遽開かれた2人だけの家族会議で、今の家を売って青森の母の実家に帰るという案が出された。もちろん杏も転校しなければいけない。
「無理。あたしは転校なんてしたくない。ここにいる」杏は恭子の出した杏を即答で却下した。
「杏・・・ここで今まで通り生活するなんて、どう考えても無理よ」言い聞かすようにして恭子は杏を見つめた。
「嫌!あたしはここにいる!何処にも行かないもん!」
「行きたくないのはわかってるけど、仕方ないでしょ。我が儘言って困らせないで頂戴!」
普段は滅多に怒鳴る事はないのだが、さすがに連日の葬式や通夜で疲れ果てていた恭子も思わず苛々と怒鳴ってしまった。怒鳴られた杏は一瞬怯えたように顔を歪ませたが、それ以上は何も言わず唇を噛んで自分の部屋に行ってしまった。その後ろ姿を見送った恭子は、大きな溜息をつくと倒れるようにしてソファーに横になった。仰向けになって真っ白の天井を睨む。
自分の夫は物静かで控えめで何を考えているのかわからない人だったが、浮気だの酒乱だのと恭子を困らす事はしなかった。だのに、こんな風にいきなりポクッといなくなちゃうなんて酷過ぎる。何より一番困るのは私達じゃない・・・
そう鬱々と考えながら、疲れ切った恭子の意識は徐々に遠のいていった。
*
「恭子さん、只今帰りました」
恭子がソファーで仮寝をしていると、夫がいつものスーツ姿で鞄を提げて玄関からとことこ歩いて来た。
「あら、ごめんなさい。もうそんな時間なのね。私ったら寝てたみたいで・・・」
目を細めて微笑んだ夫は普段通りの落ち着いた物静かな声で「疲れているんだね」と恭子を労った。
「そうね。何だかよくわからないけど、とっても疲れてたみたい。今すぐご飯の支度をするから」
そう言って慌てて起き上がろうとする恭子の頬を夫は優しく撫でながら隣に座ってまるで子どもをあやすように言った。
「大丈夫ですよ そんなに急がなくても」
「でも・・・」日は暮れかかっていて夕ご飯の支度をしなければいけないし、洗濯物も干しっぱなしだろう。
「杏も今は寝ています もう少しこのままでいたらいいよ」
そう声をかけて頬を撫でてもらいながら恭子は、よく若い頃デートに行った河原でこうやって寝転がって話をしながら頬を撫でてもらったのを思い出した。あの頃は2人で色んな所に出掛けたわ。珍しく眼鏡をかけていない夫の顔は何だか知り合ったばかりの若い頃に戻ったような不思議な感じがした。もうあれから30年近く経ってしまった。長年一緒にいて杏が生まれて生活に追われてしまって、徐々にあなたとこうやってひと時でも2人でのんびりする事も無くなってしまったわね。そんな事を思い巡らしながら、恭子はうっとりと目を閉じた。
「あなた、私ね、すごく嫌な夢を見たのよ」
「そう どんな夢ですか?」
「・・・あなたが雷に打たれて死んでしまう夢。それで私はどうしたらいいか途方に暮れているの」
そう。あまりに生々しく、棺に横たわった夫の白い顔もハッキリと覚えているくらいの辛く悲しい夢だった。きっとそんな夢をみたから、起きた時にあんなにも疲れていたんだとも思った。夫の手は温かくてこうして頬を撫で続けているのだから。
「でも良かった。あれはやっぱり夢だった。こうやってあなたはいるもの」心地好い気持ちでそう呟いた。
「恭子さん ごめんね」不意に夫が謝った。